愛語

 最近どうも言葉というものが軽く扱われすぎているような気がします。
かつて、文字や言葉は人の手によって一文字一文字丁寧に語られ紡がれるものでした。
しかし今では、文字は機械的な電気の信号に置き換えられ、コンピュータやインターネットを通じて世界中を飛び回っています。
これはある意味、文字が実体を持たないほどに軽くなってしまったとも言えます。

人の為すことは、手をかければかけるだけ愛着がわくもの。
言葉も同じです。
かつて我が国には言霊(ことだま)という言葉が生きていました。
人が口にする言葉、そして、墨をすり、かつては貴重であった紙に文字として書き付ける言葉、それらは皆人の心より生み出された、言葉としての独立した魂を持つものだったのです。
ひるがえって今日、文字はとめどなく軽くなり、単なる情報としてしか扱われていません。
いつのまにか言葉から魂も抜け落ちてしまっているように感じます。

今世間をさわがせている事件の、国会での証人喚問がテレビで放映されていますが、事件の関係者はどこを向いてもウソばかりという感じで、さっき言った言葉を次の言葉で撤回するという風情。
言葉など、まさに吹けば飛ぶような紙吹雪のような感じです。
誠にむなしく、聞いていても、こちらも右の耳から左の耳に言葉が抜けていってしまいます。

軽い言葉は、軽い心を生み出します。
軽い心は軽い社会を、つまり他人に対する思いやりのない社会をつくり出します。
言葉は本来人と人との心をつなぐ、大切な架け橋です。
単なる情報として扱うべき言葉は、それはそれでいいのですが、人と人との間をつなぐ言葉は、同じ言葉でも人の心を運ぶものであるだけに、もっと大切にしなければなりません。

修証義のこの、『愛語よく回天の力あることを学すべきなり』という言葉は、
相手のことを思い、心を込めて語られる言葉は、それを受け止める人の運命をも変えてしまうほどの力を持っている。仏道を志すものはそのことを知らなければならない。
という意味。

言葉が人の心を動かす力は強大です。
たった一言が、人の心を深く傷つけ、たった一言で、人の心に揺るぎない力を与えることが出来る。
言葉とはそんな力を時に持つものなのです。

携帯電話のメールで、文字がパチパチ飛び交う今日、文字や言葉を簡単に扱えるようになったからといって、内容まで簡単にしてしまってはいけないと思います。
言葉の大切さをぜひ再認識したいものです。

住職合掌

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