到彼岸

 到彼岸という言葉、どこかこの言葉にはロマンを感じます。
何か見果てぬ夢というか、かなわぬと思いながら求めずにはいられないもの… そんな感じがこの言葉にはあるように思います。
私は小さい頃、今は亡き夏目雅子さんが三蔵法師を演じておられたテレビの西遊記をよく観ていました。
堺正章さん演じる孫悟空の小気味よい立ち回りに毎週ワクワクしたものです。
西遊記は昔から子供向けのお話しとして人気がありますが、変わらない人気の理由の一つとして、たどり着けるかどうかも分からない遠い目的地に向かって仲間で力を合わせて苦難を乗り越えて行くという話の設定に、誰しもがロマンを感じてしまう、ということがあると思います。(最近流行った映画の指輪物語も同じ設定ですね)

西遊記は、唐の高僧玄奘三蔵が遠く西の彼方インドの地へはるばる仏教の経典を求めに行く旅を題材にしています。
玄奘三蔵が求めた仏の教え、その教えを説かれたのは釈尊。

釈尊は我々と変わりない生身の人間でした。
その釈尊は、多くの苦しみを乗り越えて仏となられた。
であるならば、同じ人の身である私達も、充分に修行をすれば仏となることができる。
これが基本的な仏教の考え方だと思います。
しかし現実には、自らの身に備わった煩悩を全て克服することは、生身の人間にはとうてい為しがたいことです。
しかし、釈尊が身をもって示したように、仏の世界は確かにある。
その仏の世界に向かって、凡夫ながらに、僅かずつではあっても一歩一歩進んでいく。
到達しがたい、或いは到達し得ないと分かっていても、到達することを目指して、力を尽くす。
ここに私は、仏教のロマンを感じます。

何事も現実に即したことを第一とする昨今の世の中。
そんな中にあって、遠い遙かな目的を目指して、日々の生活を律し、自己を錬磨する。
確として得られる保証のない道をひたすらに行く。
そんな姿が時折あっても良いのではないかと思います。

住職合掌

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