中道

 中道(ちゅうどう)というのは、仏教の基本。
片寄らない、真ん中の道ということ。
お釈迦様が6年間に及ぶ苦行を捨てたのち、村娘のスジャータから乳粥の供養を受け、菩提樹の下で禅定(坐禅)に入ったというのも、まさに中道です。
苦行をしすぎて身体を壊してしまったら元も子もありません。
かといって、楽をしすぎても何も得るものはありません。
過ぎたるは及ばざるがごとし。
行いはすべからく、適切を心がけるべきである。
これが中道です。

中道における適切とは、「ほどほど」というのとは違います。
「ほどほど」というと、大体このくらいで、やりすぎない程度に、というニュアンスがありますが、中道の適切には、大体も、このくらい、もありません。
常に及ぶ限り適切にということです。

態度がいつもどっちつかず。
イエスかノーかはっきりしない。
ある意味これも片寄りがないとも言えますが、これは中道ではありません。
周りの意見に振り回されることなく、イエスならイエス、ノーならノー。
主張すべきは主張し。
自分に非があれば素直に認め、改める。
怒ってもいい。
泣いてもいい。
笑ってもいい。
でも、心の根本の所は常にニュートラル。
ニュートラルな心で、自分の取りうるベストの行動をし続ける。
これが中道だと思います。

人はどうしても、周りの雰囲気に流されることが多く、また、過去の自分の行動や意見にもとらわれがちです。
このことを常に念頭に置き、様々なこだわりを捨てて、現実を見据え、時に応じ、状況に応じて適切に行動してゆく。
これこそが中道であると私は思います。

そして、坐禅は、この中道の心を養うためにあります。
揺れ動く心は、揺れ動く心でいいのです。
でも、どこか心の大切な部分は落ち着いている。
そんな心を坐禅は養ってくれます。
正座でもかまいません。まず静かに、姿勢を正して坐ってみましょう。
静かに坐るということは、私達の心を穏やかにし、今まで感じ取ることが出来なかったものを感じさせてくれます。

一年の計は元旦にあり。
静かに、そしてまっすぐに、一年の歩みを始めたいものです。
住職合掌

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