我慢を除くべし

 日本語の中には、多くの仏教由来の言葉がありますが、この「我慢」(がまん)という言葉もその一つです。
我慢というと、普通は耐える、こらえるといった忍耐を表す言葉ですが、仏教で使われる本来の意味はだいぶこれとは違います。
我というのは「われ」、慢というのは、「おごりたかぶり」のこと。
つまり、本来我慢という言葉は、自己へのとらわれから来る驕り、慢心を意味します。
元々は忍耐するというような意味はありませんでした。

「仏性を見んと欲せば、まずすべからく我慢を除くべし」−−これはインドの竜樹という昔の偉いお坊さんの言葉です。
仏というものの何たるかを知りたければ、まずはとにかく自らの心から我慢を除かなくてはならない。
仏に見えるのに、心の中にある我慢こそ最大の障害だというのです。
自己を頼む心−自信は大切ですが、自信も過ぎるといつの間にか慢心になってしまいます。人は往々にして、自分でも気が付かない間に自らの力を高く見すぎているものです。
自己へのとらわれ、ここから我慢が生まれてきます。

禅宗の修行道場では、入門してくるもの達に、特に最初のうち非常に厳しく接します。
どんなに社会で活躍していた人でも、ひとたび修行僧となると、自分の子供と同じくらいの若者にでもそれが先輩修行僧であれば、口答えも許されず返事はハイの一言。
たとえ間違ったことを言われようとも只ひたすらに言われたとおりに行動しなければなりません。
ここで大切なことは、間違っているかどうかという判断はあくまで自己の計らいであるということです。
自己の計らいは、自己へのとらわれに通じています。
自己を頼む心を徹底的に取り除く。我慢を取り除く。入門時の特別に厳しい修行はその為にあるのだと思います。

執着を捨てよと古来仏教では申します。
我慢というのは、いつの間にか生まれてしまう自己への執着の現れです。
捨て難き自己へのとらわれを捨てることは容易なことではありません。
それでも、自己へのとらわれ、我慢を捨てて捨てて捨てまくる。
そこから、どこまでも暖かく、自由で広い闊達な仏の世界への扉を開くことが出来るのではないでしょうか。
住職合掌

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