煩悩(貪瞋痴)と涅槃

 煩悩という言葉は、仏教用語としては非常にポピュラーな言葉です。
多くの場合、人間の持つ欲望を負の側面から表す言葉として使われています。
一般的な感覚としては、人間の欲望=煩悩と捉えられているように思いますが、本来は煩悩というのは単に欲望だけを表しているわけではありません。
仏教では古来、人間を苦しめる煩悩には以下の三種が有るとされています。
 貪(トン)…むさぼり
 瞋(ジン)…いかり
 痴( チ )…おろかさ
 ※ 貪瞋痴をあわせて三毒といいます。

 最初の”貪”「むさぼり」が言ってみれば人間の欲望を表しています。
この「むさぼり」とは、あれも欲しいこれも欲しいもっと欲しいとエスカレートしていく欲望の暴走です。
欲望の赴くままに生きていけば、あまり良い結果にならないのは常識的に考えても分かります。
遺教経というお経の中に次のような言葉があります。
『不知足の者は、富めりといえども、しかも貧し。知足の人は、貧しといえども、しかも富めり。不知足の者は、常に五欲に牽かれて、知足の者に憐愍せらる。』
「むさぼり」を離れるとは、まさに「足るを知る」ということだと思います。

 次の”瞋”「いかり」もまた、人の心を狂わせ、ひいては人と人との間を狂わせて、私達を苦しめる元凶となるものです。
中東で今、いつ終わるとも知れない紛争が続いています。
戦闘で家や家族を失った人々の心の中に生まれた「いかり」は報復となって相手に返って行き、その報復がまた相手の「いかり」を呼び、また暴力となって返ってきて悲しい連鎖を繰り返していく…。
法句経という釈尊の言葉を記録したインドの古いお経に、
『実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である』
という一節があります。
「いかり」や「うらみ」を捨てるというのは人間にとって容易なことではありません。
親や子供を殺された人間に「うらみ」を捨てよと言っても無理な話のようにも思います。
しかし、「うらみ」をいつまでも捨てないということは、いずれ他の何の罪もない人の命を奪うことに繋がり、そこでまたうらみが生まれ、そしてまた… ということになってしまいます。
戦争のような極限の話ではなくても、嫌なことをされたから嫌なことを仕返してやろうか…、というような状況は日常の中にいくらでもあります。
心の中にわき上がる「いかり」、この「いかり」をひとたび相手に向けて解き放ってしまうと、「いかり」が「いかり」を呼び自己増殖していってしまいます。
「いかり」に任せた行動は、自分にも相手にも、更には直接関係のない人にまで多くの不幸をもたらしてしまうということを私達は肝に銘じておかなければなりません。

 そして、”痴”「おろかさ」。
”群盲象を撫でる”という言葉があります。
広辞苑にも載っていますが、元はジャータカという仏教説話に出てくる、象を触った盲人の話で概略は以下のようなものです。
『ある時、象を知らない何人もの盲人が初めて象に触り、象とはどのようなものであるかを述べた。
象の足を触った盲人は、象とは立派な柱のようなものであると言い、
尾を持った者は箒のよう、尾の根本を持った者は杖のよう、腹を触った者は太鼓のよう、脇腹を触った者は壁のよう、背を触った者は背の高い机のよう、耳を触った者は団扇のよう等々、それぞれに自分の意見を主張し譲らなかった。』
というもの。
私達は、往々にして、ここに出てくる盲人達のように(時には無意識のうちに)小さな自分の考えに捕らわれてしまいがちです。
そんな人の心の弱さや智慧の至らなさが”痴”「おろかさ」。
人間誰でも、程度の差はあったとしてもこの「おろかさ」を持っています。

 以上の「むさぼり」「いかり」「おろかさ」の三つが人間の持つ基本的な煩悩です。
この三つの煩悩を元にして、俗に百八の煩悩といわれるように更に様々な人間を苦しめる煩悩が生まれていきます。

 −−いたずらに欲望に身を任せず、足るを知り、いかりの心を鎮め、謙虚に周囲に心を開き、仏の智慧を学び、自己の向上に努める。−−
煩悩を滅し涅槃に到る道は、言葉にすれば簡単ですが、しかし、これを不断に実際の生活の中で行い続けていくことは非常に難しいことです。
困難な道ではあるけれども、「自己を灯(ともしび)とし、法を灯として、怠ることなく精進せよ。」という言葉を弟子達に残して釈尊はその八十年の生涯を終えられたと伝えられています。

住職合掌

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