只管打坐

 「只管打坐」という言葉は、曹洞宗の特徴を誠に見事に一言で表しています。
坐禅という仏行に己の全てをゆだねる時、その「坐」に仏の御命が現れ、坐している者も仏そのものとなる。――これが「只管打坐」の心。

 『正法眼蔵』生死の巻の中に、以下の有名な言葉があります。
 「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。」
ここに言われているのは、己の身も心も全てを仏にお預けしてしまうということ。
全てを仏にゆだねきった時、仏の姿が現れ出で、自らもその仏の世界に入っていけるということです。
よく念仏は他力本願、禅宗は自力の宗教だ、というような言われ方がされますが、実は曹洞宗の禅も立派な他力本願だと思います。
おおよそ宗教である限り、「救い」というものは自己の全てを神なり仏なりに任せきった時にもたらされるものであるはずです。
念仏に於いては念仏に自らの全てを投げ入れ、禅に於いては禅に自らの全てを投げ入れる。
自分ではどうにもならないこの自分を、仏さまに丸投げして全部受け取ってもらう。
全部ということは、嫌なことも悩ましい色々な思いも全てということ。
これらをみんな一緒に仏さまに貰っていただいて、心の中をすっきりさせてしまいます。
すると、このすっきりした心の中に大いなる安心が自然に生まれてきます。
この「安心」は、赤ん坊が母親の腕に抱かれている時の安らぎに似ています。
どこまでも優しい母の腕の中に似て、どこまでも深く広い仏の優しさの中で、私達は真の「安心」を得ることが出来る。
これが「只管打坐」。

「只管打坐」という言葉は、直接的にはただひたすらに坐禅をするという意味ですが、それだけにとどまらず、日常の行住坐臥全てを仏道として行じていくという曹洞宗の根本精神をも表していると思います。
お茶を飲む時は只管(ただひたすら)にお茶を飲み。
ご飯を食べる時は只管にご飯を頂く。
掃除をする時は只管に掃除をし、トイレに入る時は只管にトイレを使う。
ここでいう只管とは、仏道として正直にまっすぐ心を込めてということ。
まっすぐが大切です。
身体をまっすぐ。
行いをまっすぐ。
心をまっすぐ。
この”まっすぐ”が私達を仏の安らぎの世界へ連れて行ってくれます。
日常的な言葉で言えば、何をするにも一つ一つのことをおろそかにせず、心を込めて行うということです。
坐禅までは出来なくても、この只管(ただひたすら)ということ、普段の生活の中で心がけて頂けたら、少しずつ少しずつ仏様の心が私達の心の中へやって来てくれることと思います。

住職合掌

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