行雲流水

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」…有名な方丈記の書き出しです。
世の中は、過去現在未来と変わりなく続いているように見えても、その中で生きている私達人間は、常に生滅を繰り返し、同じ者がそこにあり続けることはない…。
人は水であり、世の中は河です。
水は常に流れ去り、水の質や流れの深さ早さは変わりますが、河はやはり同じ河。

この、世の中を河に例えた方丈記の比喩は、より小さな眼で、私達一人ひとりの身体についても同じことが言えると思います。
学校で習うように、人間の身体は沢山の細胞から出来ています。
そして、常に古くなった細胞は壊れ、体の外に捨てられ、同時に新しい細胞と置き換わってゆく。
置き換わってゆくことによって姿や構造や働きを同じに保っています。
この身体の営みは、私達の意志と関係なく、私達が生まれてから死ぬまで片時も休まず続けられています。
先日ある本で読んだのですが、一年前の自分と今の自分では身体を形作っている物質はほぼ全て入れ替わってしまっていて、同じ物質はほとんど無いとのこと。
実際の感覚では、一年前の自分と今の自分がそんなに違っているとはとても思えませんから、なにか不思議な感じがします。
中身を入れ替えても姿を同じに保とうとする私達の肉体。
この、肉体が本来的に持っている「常」への指向と、それとは逆に変化し続けてやまない現実の「無常」とのギャップがこの不思議さを生むのではないでしょうか。

人間だけでなく、およそ命あるもの−「生命」は自分自身を出来るだけ同じに保とうとします。
しかし、生命以外の世界の姿は常に流転し変化し続けている。
つまり、全体としては本来的に「無常」である世界の中で、人間を含む生命は例外的に「常」であろうとしているということ。

流れゆく雲、流れゆく水
そして、流れゆくわが人生
流れゆくことを止めることは出来ません。
「常」を求めても、いずれは限界が訪れ、次の生命に命を引き継ぎ、個々の「いのち」は無常の流れの中に消えていきます。
しかし、消えてゆくものであるからこそ、この「いのち」の働きを精一杯に活躍させ、無常の中であるからこそ、同胞である他の「いのち」と共に自分のこの今の「いのち」を当事者として大切に生ききる。
それが仏教の説くところなのだと思います。

現代の生活は複雑かつ多忙です。
様々なことに振り回され、めまぐるしく日々が過ぎていきます。
しかし、それでも忙中閑あり。
ちょっとした時間を見つけて外に出てみると、今はまさに緑の季節。
緑の中で静かに自分を省みてみれば、柔らかな光に揺れる若葉のように、自らの中にも常に「いのち」が息づいています。
自分の中の「いのち」の力を感じとり、めまぐるしく過ぎてゆく日常に負けずに、常に新鮮な気持ちで現実に向かっていきたいものです。
住職合掌

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