心自閑

曹洞宗には、「威儀即仏法」(いぎそくぶっぽう)という言葉があります。
威儀を正すという言葉が一般にありますが、これは身なりを整え形を整えるということ。
「威儀即仏法」の威儀も同様の意味ですので、つまり、全体としては「形を整えることがそのまま仏法である」という意味になります。
人間、自分の心の動きを自分の力で意識的に制御することはほとんど不可能です。
喜怒哀楽はその場その場の状況に応じて人の心の中に自然に生起し、押しとどめようと思ってもなかなかうまくはいきません。
人間関係や、周りの状況によって人の心は様々に移り変わってゆきます。
様々に移り変わる人の心をいかにして、偏りのないものにし、仏の心に近づけていくか…
心を直接制御出来ないのであれば、では、周りの状況を整えてみたらどうだろうか、そうすれば、それに伴って心も整ってくるのではないか。
形を整えることが、そのまま仏法であるというこの「威儀即仏法」という言葉の背景には、そのような発想があるように思います。
永平寺などの禅寺へ行った際、豊かな緑の中で綺麗に掃除の行き届いた庭や廊下を歩くのは大変気持ちの良いものです。
清々しい気持ちになります。
環境によって人の心を綺麗なものにすることができる。
「威儀即仏法」の心の一端です。

寺というのは、全国津々浦々いたるところにありますが、それぞれの場所なりに、それぞれの寺なりに、雰囲気そのものによって、そこに来た人がなにかしら心が洗われる、あるいは心が安らぐ、つまり心自閑(心が、おのずから、しずかになる)、そんな場所であるべきなのだろうと思います。

住職記

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