悟り、身心脱落

 悟り(覚り)とは、一体どのようなものなのか?
悟りを開くとは、どういう事なのか?
ある意味これは、仏教の究極の問いです。
結局の所、悟りとは、自分でその状態になってみないと分からないものなのかも知れません。
曹洞宗の開祖道元禅師は、自己の悟りについて、「身心脱落」という言葉で表現しています。
禅の修行を続けて、最終的に得た境地を表した言葉です。
「身心脱落」、身と心が抜け落ちる−−これはおそらく、自分の身と心が自分自身から抜け落ちる、と言うことだと思います。
しかし、自分自身から身と心が抜け落ちてしまったら、後に何が残るのでしょう?
何もなくなってしまうのでは?
おそらく自分自身の意識だけが残り、あとのものは全て自分自身から抜け落ちてしまう−−そんな感覚を表現しているのだと思います。
道元禅師は、その著書の中で、「身心脱落」という言葉に似た「透体脱落」という言葉を使っています。
体が透けて抜け落ちる−−「身心脱落」よりもよりビジュアルに、よりリアルに悟りの感覚を表現した言葉です。
禅の世界は一元論的です。
自己と自分の周りの世界が一体となり、自己と世界との境が消え去り、自即他、他即自、あるいは自も他もなく一なる意識として透明な意識として存在している、そんな感覚をこの「透体脱落」という言葉は表しているのだと思います。
「身心脱落」、「透体脱落」どちらも頭で感覚として捉えることはできますが、しかし、自分自身で実際にこの境地にいたるのは至難のことであり、凡夫たる私にとっては、まったく遠い道のりです。
お釈迦様の「悟り」もやはり、自己の存在と世界が溶融して一つになるような、あるいは意識が世界へ拡がってゆくような、そんな深い内的な体験だったのではないかと想像します。
「世界は一つ、人類は皆兄弟。」
昔のコマーシャルにありましたが、仏教の「悟り」は実はそれを心の深いところで実際に皮膚で触れるように肉体感覚的に感じ取る体験なのだと思います。
真実は一つであり、世界の始まりから何も変わっていないのですが、その真実を生身で探り当て、直に手でつかむことは、非常に難しいことです。

今年ももうすぐ終わり。
なんとなく、またあっという間に一年が過ぎてゆきます。
しかし、毎年あっという間あっという間と言っていると、同じ調子で、人生あっという間の積み重ねで終わってしまうような気もします。
同じあっという間の人生だとしても、中身の濃いあっという間にしたいものです。
「悟り」までは届かなくても、目的の方向はしっかり見定めて、日々是精進。
時間を、日々を、大切に過ごしてまいりましょう。
住職記

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