仏道をならうというは自己をならうなり

 「仏道をならうというは、自己をならうなり。」
この言葉には続きがあり以下のようなものです。

仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
(正法眼蔵現成公案より抜粋)

難しいですが、
自分にしっかり向き合うと、その先に自分が包含されている世界を感得することが出来、さらには、自他の区別を超えて世界と一つになる事ができる。
そんなことを言っているのだと思います。

正法眼蔵の別の箇所で道元禅師が使われた言葉に、「透体脱落」という句があります。
体が透き通って抜け落ちてしまう。
直接的にはそんな意味だと思われます。
坐禅をしてじっとしていると、いつのまにか自分の意識が自分の中から拡がり出て周りの世界と自分との境目が曖昧になってくるような感覚になることがあります。
透体脱落とはそんな感覚を表しているように感じます。
意識がさらに拡がって、この世界と自分との区別が無くなった時、冒頭に示した文章の最後の句にある「身心の脱落」に到るということでしょう。
身心脱落とはつまり「悟り」。
身心脱落という言葉はしかし凄い表現だと思います。
体から身と心が抜け落ちてしまうと言うのですから。
なんだか透明人間になってしまいそうな言葉ですが、この強い表現によって意識が自分を超えて世界と一体となる過程をただ一言で言い表しています。

日常の雑事に追われていると、自分そのものの存在にさえ気をとめずについ日々が過ぎていってしまいます。
時の過ぎゆくのは速やかです。
私自身も、「人生五十年」到達目前。
毎日、一日ずつ年を取っていますが、身心脱落などまだまだ単に頭の中で夢想しているだけ。
もっと一日一日を大切にしなければと思っているこの頃です。
住職記

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