無一物中無尽蔵

 この「無一物中無尽蔵」という言葉は、中国宋代の詩人蘇東坡(そとうば)の、

 素紈(がん)画かざれば意高き哉 儻(も)し丹青を着ければ二に落ち来る 
 無一物中無尽蔵 花有り月有り楼臺(ろうだい)有り

という詩から引用された句です。
詩の大意は、

「何も書いてないまっさらな画布の上には様々な思いを巡らすことが出来るが、
もし、この画布に青や赤の色を付けてしまったら、画布はその絵(色)に限定されてしまう。
何もない所では、全てが可能だ。
いま私は、このまっさらな画布に花や月や楼臺を見ている。」

かなり意訳ですが、そんな意味かと思います。
蘇東坡という人は禅にも造詣が深かったそうですが、この詩の中から「無一物中無尽蔵」という言葉は取り出され、禅語として使われるようになりました。

禅は世界と己が一つになることを求めます。
自己と世界が一つになってしまうと、あれやこれ、自分と他人といった区別や境目が無くなってしまう。
無一物とはそういうことです。
「物」と限定されるものが一つも無いということ。
あれもこれも、自分も他人もない…あえて言えば全てが”一つ”だということ。
であるがゆえ、詩の中で、もし絵を描いてしまえば「二に落ち来る」と表現されているのかなとも思います。
そして、全てが”一つ”であるがゆえ、そこには全て(世界の全て)が含まれています。
結果、無一物の中に無尽蔵がすっぽりと収まってしまうというわけです。

自と他が融合した境地では、何も無いとも言えるし、全てがあるとも言える。
それを表現したのが、無一物中無尽蔵という言葉です。

さて、話がいきなり変わりますが、現代の科学者はこの宇宙は何もない所からいきなり大きな爆発が起きて生まれたと考えているそうです。
そして、現在も宇宙は大きくなり続けているとのこと。
科学もまだ発展途上ですから、また違う考えが出てくるかもしれません。
しかし今のところ、宇宙は大きな爆発(ビッグバン)によって無から生じたというのはほぼ定説です。
これはまさに、無一物中無尽蔵が禅の世界のみならず現実にもそのとおりだと言うこと。
これは偶然の一致なのか?
ちょっとワクワクしてしまいます。
住職記

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