残り時間

 今の普通の若い人は、一般に「死」というものに直接関わることが少ないと思います。
しかし次第に歳を取るにつれ「死」に日常の中で接する機会が多くなっていきます。
例えば、歳を取れば取るほどお葬式に出席する機会が多くなります。
ある意味当然といえば当然のことです。
そして、最初、驚き緊張して出席していたお葬式も、次第に「またか…」という感覚に変わってゆきます。
死に触れることが多ければ多いほど、死に対して鈍感になって行くのは人間の性として仕方がないことです。
しかしそれが自分の感情に近い所で起こった場合、つまり亡くなった人が自分に近しい人であればあるほど死に対して怖れのような感情を抱きます。
自分自身がそこで断絶しこの世から消えてしまう「死」に、自分の領域に入ってこられたように感じ恐怖を覚えるのです。
本能的に人はなるべく自分の死を考えないように出来ているように思います。
実際、毎日来る日も来る日も自分の死のことばかり考えていたら他のことが手に付かなくなって生きていられません。

私は、意識的に自分がこの世から消えてしまうことを考えてみることがあります。
すると、時折ですが、世界が終わってしまうようなものすごい恐怖を感じることがあります。
ガン宣告を受けた方々は、このような恐怖を現実に体験しそしてそれを乗り越えて日々を生きているのだと思います。
そしてここからが大切なのですが、ガン宣告を受けていなくても、実のところ誰でも余命〜年です。
ただ「〜」の部分が分からないだけ。
いつか死んでしまうことに何の変わりもありません。
人生はいつか終わってしまいます。
ガンでなくても終わってしまいます。
当たり前です。
では、終わるまで何をするか?
これはある意味、人生の最重要事項です。
個々人の最高機密。トップシークレット。
他人が関与しない。関与できないことです。

釈尊は亡くなる際に「自らを拠り所とし、法を拠り所とし、自らの道を歩め」という言葉を弟子達に残しています。
これは言い換えると、「頼れるものは自分自身とこの世の真実のみである」ということ。
この世の真実を真実として過たず受けとめ、自分の人生を自分の人生として生きていけ。
そう釈尊は言っているように思います。
人の命は儚いものです。
儚いからこそ、その儚い一瞬に乾坤一擲の力を注ぎ込むこともできるのだと思います。
日常は、ついつい惰性に流れてしまいがち。
たまには、自分に死が訪れ、自分という存在がこの世から消えてしまう状況をよく考えてみては如何でしょうか?
いつか必ず来ることなのですから。
住職記

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