坊主頭

 なんでお坊さんは坊主頭なのか?
大人にとっては、サラリーマンがネクタイをするように、坊主は坊主頭なのが当たり前…という感覚があるように思います。
坊主本人である私も普段自分が坊主頭にしていることを殊更気にかけるということはありません。
しかし本来、坊主頭にしているのには、大切な理由があります。
それは、様々な欲望(煩悩)を断ち、煩悩に惑わされることなく仏の教えを守り生活していくためです。
僧侶になる最初の儀式に得度式(とくどしき)というものがあります。
この式の中で、僧侶になるものは頭の毛を剃られて”坊主”になります。
頭の毛を剃るということは、欲望(煩悩)を断つということを象徴する大切な行為。
ただ、日本において今のほとんどのお寺は、大昔のように出家をして寺に入り、小欲知足の清貧な生活をして毎日を過ごすというような場所ではありません。
まず住職も結婚していることがほとんどです。妻子が居ます。
赤ちゃんが泣きわめき、秋なら台所からサンマを焼く匂いがしてくることもあるでしょう。
寺の敷地の一角で保育園や幼稚園をやっていて、住職は園長を兼任していたりします。
あるいは、役所や会社に勤めていて休日だけ衣を着て法事をする。
檀家さんで亡くなった方があれば、有給休暇を取って葬儀を務める。
そんなパターンもあります。
本来、俗世からある程度離れて存在しているはずのお寺の中に普通の家庭が組み込まれている…それが今の現実の日本のお寺です。
そんなお寺の住職として日々を過ごしていると、つい自分が坊主頭であることの本来の意味を忘れてしまいがちです。
でもやはり、坊主は坊主。この現実の中で坊主らしく坊主は生きていかなければなりません。
矛盾はあります。
矛盾だらけといってもいい、この坊主という存在。
しかしこれは、人間の理想と現実を巧まずして表しているのかもしれません。
「よしあし(善し悪し)の中を流れて清水かな」という句があります。
”よしあし”は、流れの緩やかな川辺に生えている植物の葦のこと。
葦はその中を流れていく水をゆっくり浄化します。
濁った水も葦(善し悪し)の中を流れていくうちに綺麗な水になっていく…つまり、清濁両方のあるこの世に生きてこそ、それを超えた本当の清らかさが得られるということ。
清濁の同居した矛盾した存在であればこそ、その上の”清”を目指すことも出来るのかなと、今の世の中での坊主=僧侶という自分の立場について考えています。
住職記

今月の言葉に戻る