会者定離

 仏教は無常を説きます。
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響き有り〜」
有名な平家物語の出だしです。
日本では昔からこの平家物語のように、無常というとどうしても寂しさやむなしさがついて回るように思います。
実際、無常という事実は寂しくもあり虚しさも感じるのですが、それは無常のマイナス面に関してです。
無常にはプラスの面もあります。
会ったものにはいつか別れが来ることを、会者定離(えしゃじょうり)といいますが、別れが有るということはそれと同じだけ出会いもあると言うこと。
出会わなければ別れることも出来ないわけです。
会ったものに別れ、また新しい出会いがあり、また別れが有り…というふうに人生は続いていきます。
そして人生もいつか終わり、全てとお別れするときが来ます。
これもやはり終わりが有るということは始まりもあります。
つまり赤ちゃんの誕生。
出会いと別れ、生と死、これらはどちらか一方では成り立ち得ず、一方が有るということはもう一方も必ず有ります。
無常ゆえ赤ちゃんが生まれ、無常ゆえ死もある。
無常ゆえ出会い、無常ゆえ別れる。
良いことも悪いことも全てひっくるめて「無常」。
こう考えてみると、無常という言葉に寂しさや虚しさだけを感じるということは無くなるのではないでしょうか?
秋に落ち葉が散って行くのも無常であるがゆえ、春に桜がいっせいに綺麗に咲き誇るのも無常であるからこそ。
全ては移ろいゆくということです。
過去へと流れて行く現実に執着せず、新たな時の流れにのり、あるいは時の流れを自分で作り出すくらいの前向きの気持ちで、人生を生きていきたいものです。
住職記

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