鳥飛んで鳥の如し

 ”空闊くして天に透り 鳥飛んで鳥の如し” この言葉は道元禅師の書かれた坐禅箴(ざぜんしん)に出てくる、
 水清うして地に徹す、魚行いて魚に似たり
 空闊うして天に透る、鳥飛んで鳥の如し
という対句から取ったものです。
意訳すると、
 水中を、魚はどう泳いだら良いか考えて泳いでいるのではない。
 空中を、鳥はどう飛んだら良いか考えて飛んでいるのではない。
 しかし、自在に水中を泳ぎ、空中を飛ぶ。
 坐禅の心もそのように自在なものである。
そのような意味だと私は思っています。
魚や鳥のように人間は単純ではありません。
普通に生きているだけで結構大変です。
子どもは子どもで、大人は大人で、それぞれに人生色々、結構大変です。
しかし、大変なものは大変なままで自然な姿、大変でないものは大変でないままで自然な姿。
現実を”自然”に、あるがままに受け入れるのが坐禅の目指すところです。
人が「あるがままに」と思った時点で、本来のあるがままでなくなってしまうという、やるせない事情も踏み越えて、それを踏まえて「あるがまま」を坐禅は目指します。

風薫る五月、天気の良い日に寺から少し離れた河川敷の広場に行くと、野球やサッカーをしている子ども達の上でひばりが賑やかに囀っています。
空は青く、花の薫りを含んだそよ風が頬をなで、誠に気持ちよいものです。
心の中までそよ風が吹き、すっきりした気分になります。

魚は泳ぐから魚、鳥は飛ぶから鳥、人は悩むから人です。
前月に書いた言葉のように、前にくぐまり後ろに仰ぐことなく、体と心をまっすぐにして人生を歩んでまいりましょう。
住職記

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