ボランティアの心 『悲心』

 今年の夏は暑く、そして雨がたくさん降った夏でした。
常仙寺のある群馬県ではあまり雨による被害はありませんでしたが、西日本では大変な豪雨に見舞われ、多くの人が亡くなり、家屋など物的にも甚大な被害が出て、いまだ復旧作業が続けられています。
被害の様子をテレビで見ていて感じたのは、ボランティアの人がたくさん活動されているのだなということ。
例年以上に暑かったこの夏、40度近くになる暑さの中で土砂の撤去作業を行うのは肉体的に非常に大変な仕事の筈です。
そんな中、ボランティアの人達は洪水の被害に遭った家屋から土砂を取り除く作業に取り組んでいました。
安易な思いつきで出来ることでは無いように思います。
苦しんでいる困っている人を見て、何か自分にしてあげられることはないか、そんな気持ちからボランティアに来る人達がたくさんいたのだろうと思います。
この、他人の苦しみを自分の苦しみと同じように感じる心を、仏教では『悲心』と言います。
悲しい心と書いて悲心(ひしん)。
人の悲しみを自分の悲しみとして受け取る心
思いやりの心とも言えますが、単なる思いやりと違うのは思いやってあげる側と思いやられる側の区別が無いことです。
私からあなたへの思いやり。あるいは私からあの人への思いやり。そういった主体と客体、自他の区別が存在しないのが「悲心」です。
人の痛みは、そのまま自分の痛み。
人の苦しみは、そのまま自分の苦しみ。
川の水が溢れ、家が流され、身一つで避難所にいる人を見て、自然に何とかして助けてあげたいと思う心。それが悲心です。

 先日、豪雨の報道が下火になってきた頃、山口県の2才の男の子が行方不明になる事件があり、警察の懸命の捜索でも見つからなかったこの男の子をボランティアの男性がほんの30分で見つけ出すというニュースがありました。
このボランティアの男性、高齢と言って良い年齢にもかかわらず筋金入りのスーパーボランティアで、東北大震災の時を始め災害があるとその場所へ行ってボランティア活動をしていると言う方でした。
ネットに記事があったので読んでみたのですが、この方の生き方は、見返りを求めずただひたすらに他者のために生きる利他行そのものと言えるものでした。
明るく飄々としている気の良いボランティアおじいちゃんという感じのこの方の心の中は、たぶん悲心で一杯に満たされているのだと思います。
こんな人が、実際に普通に世の中にいることを知り、なんとなく心が軽く明るくなりました。

 現代の菩薩行と言えるボランティア活動、盛んになればなるほど世の中が明るく生きやすいものになって行く気がします。
住職記

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