月と仏さま

 子どもの頃、私が寝起きしていた部屋の隅の柱に「信濃では 月と仏と おらがそば」という俳句が刻んである竹細工が掛けてありました。
多分、私が生まれる前からそこに掛けてあったのでしょう。高校生の頃に家を建て替えるまで同じ所に掛けてあったように思います。
小学生の頃は、たまになんて書いてあるのか気になる時もありましたが、基本的に部屋の風景の一部になっていました。
中学生か高校生の頃、刻まれているかなり崩した字をなんとなく眺めていて「信濃」という字が突然字として目に入ってきて、何かすごい大発見をした気分になり妙に嬉しかったのを憶えています。
「おらがそば」は、”俺のそば”みたいな意味なのかな?と思っていました。
このあたりでなんとなく俳句の持っている雰囲気を感じていたように思います。

すぐれた俳句は子どもの心の中にも鮮やかに情景を浮かび上がらせます。
少年だった私の心の中にこの句によって浮かび上がっていたのは、――旅先 月夜 風は無く少し肌寒い戸外 きれいな月を見上げる人 土地のそば 素朴な味――というような心象風景だったと思います。 
なぜか ”仏”は私の心の中の風景には要素としてありませんでした。
今思うと、”仏”という言葉が ”風の無い静かさ”に心の中で変換されていたのかもしれません。
”月”も静かさを感じる言葉ですが、 ”仏”も同じく静かさを感じます。
この句では、”月と仏”と静かさを感じる言葉を並べることで、静かさが際だっているのではないでしょうか。
月と仏は、この日本の国に住んでいる私達の心に静かさを想起させる、どこかで繋がっている言葉のようにも思えます。

 猛暑の後の秋、最近は大きな台風がしきりにやって来てゆっくり夜空を見上げる余裕もあまりありませんが、それでも静かな月夜も必ずあります。
静かな月夜の晩に外に出て、空を見上げて下さい。
二千数百年前にお釈迦様が悟りを開いたときと同じ月が、全く同じ月が、同じようにそこにあり、同じように光っています。同じように私達を照らしています。
静かに月の光に照らされていると、静かなお釈迦様の心や仏様の心が私達のほうにやって来て、心の中が優しい光でいっぱいになってまいります。
住職記

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