無心

 中国の昔の有名な禅僧に趙州和尚という人がいました。
この趙州和尚さんにはたくさんのエピソードがあり、その中の一つに以下のようなものがあります。

趙州和尚にある僧が訊ねた。
僧: 「私は、修行の結果、一切を捨てつくした境地にあります。
   これから私はどう修行したらよいでしょうか?」
趙州:「放下著(捨ててしまえ)」
僧: 「捨ててしまえといわれても、もう何も持っていません。
   何を捨てるのですか?」
趙州:「捨てられないのなら持って帰れ」

短いですが以上です。
訊ねた側の僧は、十分に修行して無心の境地に自分は達していると思って訊ねたのでしょう。
しかし、そこにはまだ自分をたのむ自己へのとらわれが残っていた。
そこを趙州和尚は見逃さず、「(そんな自己へのとらわれは)捨ててしまえ」と言った。
僧は言われていることが分からない。
捨てるものはもうないと思っているから、「何を捨てるのか?」と問い返す。
捨て去ってしまったというその思い込みこそ捨てなければならないのだけれども、そのことに僧は気づかない。
そこで、「捨てられないのなら持って帰れ」と明らかにお前には捨てる物が残っているよと趙州和尚に指摘されて話は終わります。

無心とは古来、禅のテーマと言っても過言ではありません。
そして、無心になるということは本当に難しいことだと思います。
無心ということを気にしていると、無心自体にとらわれてしまいます。
無心を求めて、無心を忘れる。そんな境地になったときがやっと無心なのかなとも思いますが、それでは自分が無心になったという自覚自体無いだろうと思われ、意味があるのか?とも感じます。
結局、頭で考えていても堂々巡りになるだけです。

曹洞宗の教えでは、無心=坐禅です。
坐禅をしていると言うことは、それは(その人は)無心だと言うこと。
無心になりたければ坐禅をすれば良いのです。
誠に単純明快、坐禅をする=無心になれる。
無心になることは自分でやろうとせず坐禅に全てお任せしてしまいます。
形を調え、息を調えてまず坐る。
肉体の形と動きが心を先導します。
全てお任せして、静かに坐る。
そうすると、心が解放されて次第に楽になってきます。
無心は自分で得るものでは無く、坐禅によって与えられるものです。
住職記

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