三法印

 先月に一切皆苦をテーマにしましたので、今月は続けて他の三つの仏教の根本要素である諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の三法印(さんぼういん)を取り上げてみます。

諸行無常
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…
日本人ならほぼ誰でも聞いたことがある平家物語の出だしです。
栄華を極めた平家が時の移ろいとともに力を失い滅びて行くストーリーと諸行無常という言葉は見事に共鳴し合い私達の心に響きます。
諸行無常というと、基本的な語感として虚しさを感じてしまうのは、もしかするとこの平家物語のせいなのではないか?となんとなく感じてしまうほど、諸行無常という言葉と平家物語のストーリーはセットになって日本人の民族的感性の基盤となっている気がします。
そんな事情があるからか、諸行無常という言葉は、諸行無情と間違えても書いても間違えに気づかないほど、人の世の移ろいをマイナスのイメージで表現するときに使われています。
しかし、実は、諸行無常という言葉は単純にこの世の全ては常ならずと言っているのみで、言葉自体の意味としては悲観的な意味はありません。
平家が滅びるのが諸行無常ならば、源氏が代わりに天下を取るのも同様に諸行無常です。
同じ物事をプラスの側から見るか、マイナスの側から見るかの違いはありますが、どちらから見ても無常であることに変わりはありません。
ところで、”諸行”とは世の中の出来事ばかりでなく、森羅万象この世の全ての物事を意味しています。
私達の肉体そのものも、肉体を作っている様々な物質も、岩も砂も海も空も、動物も草木も、人の集まりであるこの社会も、人の作り出す机や椅子や家や車も、この世に存在する物全てのことを”諸行”という言葉は一言で表しています。
この世の中の全ての物事は、片時も休まず変化し続けている、というのが諸行無常の意味です。
人は生まれて成長し、成長がいつしか老いとなり、病を得、やがて死ぬ。 
変化し続けています。
日本という国は、平氏と源氏が活躍した時代から現在までずっと続いていますが、国を構成している人間は常にに入れ替わり変化し続けています。
人の体は、生きていくために飲んだり食べたりしなければならず、また排泄もあり、人体を構成している物質は常に入れ替わり変化し続けています。
草や木を含め生き物は全て同じ。
土や石や水も大きな目で見れば様々に姿を変えつつ、一部は時々私達の体の一部となりながらこの世の中を巡り変化し続けています。
諸行無常とは、このように常に変化し続けるこの世の“存在”の本質を表す言葉です。

諸法無我
諸行無常の諸行と諸法無我の諸法は、細かく言うと少し違うようですが、対になる言葉として考える時、ともに「この世の中の全ての物事」という意味と取っていいのではないかと思います。
そして、無我とは実体が無いという意味ですので、諸法無我は、全ての物事にはそれ自身の実体が無い、という意味になります。
ここで言う実体がないというのは、全てのこの世の物事は様々な要素が様々な因縁(因果の連鎖)によって結びついて成り立っており、そのものだけで他の物を必要とせず存在している物事はないということ。

例えば私という一箇の人間を考えてみます。
体は、食べ物や飲み物が変化して形作られているものです。
また、生まれてからこれまでの様々な環境との関わり合いが今の人格を作っています。
これからも私の体は、食べて入ってくる物があれば出て行くものもあるわけで、少しずつ入れ替わっていくでしょう。
また、生活していく中で少しずつ考え方や感じ方も変わっていくでしょう。
確かに不変の本質=実体はないと言えます。
もう一つ考えてみましょう。
世の中で一番硬いと言われるダイヤモンド。
ダイヤモンドは永遠の輝きと何かのコマーシャルで言っていました。
本当に永遠でしょうか?
実はダイヤモンドは火をつければ燃えてしまいます。
ダイヤモンドは炭素が硬く結びつきあって出来ています。
黒鉛などの炭素が地球の内部の超高温と超高圧によってダイヤモンドに変わるのだそうです。
しかし、硬く結びついていたとしてもやはり炭素、つまり炭ですから燃えるのも当然です。

およそこの世にあるものは他との関わり合いの中で存在しており、存在とはそもそもそういうものだ、というのが諸法無我の考え方なのだと思います。

少しここで整理します。
 諸行無常=全ての物事は常に変化して行く。
 諸法無我=全ての物事は本質的に他との関わり合いの中で存在している実体のないものである。
二つの言葉を合体させると、
 「全ての物事は常に変化し、本質的に他との関わり合いの中で存在している実体のないものである。」
となります。

涅槃寂静
この「諸行無常&諸法無我=全ての物事は常に変化し、本質的に他との関わり合いの中で存在している実体のないものである。」というこの世の本質を真に理解した修行者の境地が涅槃寂静です。
涅槃寂静において、煩悩は消え去り心は安らいで完全な自由を得るとされます。

以上が、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印と言われる仏教の三つの根本要素です。
世の中に仏教の宗派は沢山ありますが、仏教である限りこの三つの要素が必ず含まれている、つまり仏教の印(しるし)であるということで三法印とされています。
興味のある方はさらにネット等で調べてみて頂ければと思います。

住職記

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