行持

 「行持」(ギョウジ)という言葉は一般には聞き慣れない言葉ですが、曹洞宗ではよく使われる大切な言葉です。
意味は、「行いたもつ」ということで、お釈迦様から二千数百年にわたって伝えられて来た仏の教えを(行いという面に於いて)行い続けていくということ。
仏の教えは、ただお経に書いてあることだけではなく、人から人へ伝えられる「行」(ギョウ)によって受け継がれていくという考えが表明されています。

感謝の気持ちを忘れるなと世間ではよく言われます。
よく忘れられるからこそ、よく言われるのだと思いますが、どうすれば忘れないでいられるでしょう?
とても簡単で、感謝の行動を習慣にしてしまえば良いのです。
お寺の様々な行事では僧侶が何度も何度も礼拝をします。
ただ頭を下げるだけでなく作法に従って膝から臂そして額を地に付けて礼拝をします。
何度も何度も。
この丁重な礼拝をすることによって、その行動によって、仏への感謝が心の中へ自然に定着してお坊さんが更にお坊さんになっていきます。
「行い」が「心」を作ってゆくのです。
一般の社会に於いては食事の際の「いただきます」と「ごちそうさま」が良い例です。
「いただきます」と「ごちそうさま」を必ず口に出して言うように食事の際の習慣にしてしまうと、食べ物について毎回感謝の気持ちを特別意識していなくても、習慣で口にする「いただきます」と「ごちそうさま」という言葉によって無意識に感謝の気持ちが心の中に涵養されます。
そしてこの感謝の気持ちが染みこんだ心が、その人の行いや考え方に知らず知らずのうちに影響を与えていく。
「行持」という言葉の本質はこのように「行い」によって大切な心が受け継がれていくというところにあるのだと思います。

今の世の中は右を向いても左を向いてもコンピューターやネットが無ければ夜も日も明けぬかのようなデジタル社会ですが、どのように社会が変わろうとも人間の本質は何も変わりません。
人間は生き物であり、動物です。
動物は動く物と書きます。
物理的に動くことが人間の本質の大きな一部です。
「動く」つまり「行う」という事をおろそかには出来ません。
文字や情報やデータのやりとりだけでなく、生身の体を動かす「行い」こそ人間を造りあげている基本だということをもっと大切にすべきだと思います。
住職合掌

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