災難に逢う時節には

 「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候。是はこれ、災難をのがるる妙法にて候」
これは江戸時代の名僧良寛さんの名言の一つです。
良寛さんの住む地方(今の新潟県)を大地震が襲ったときに友人にあてた見舞い文の中に出て参ります。
この友人は地震で身内を亡くすなど大変な被害を受けていたようです。
そういう人に対しての言葉としてはあまりに冷たすぎるというか割り切りすぎているようにも感じますが、普段の良寛さんが飾り気の無い心優しい人であり、災害に遭って苦しんでいる友と同じ心で悲しみの底に沈んでそこから発せられた言葉であるがゆえ、人の心の琴線に触れ、救いを感じさせてくれているのではないでしょうか。
どう頑張っても人間にはどうすることも出来ない現実は、受け入れる以外ありませんが、分かってはいてもジタバタしてしまうのが普通の人間です。
受け入れがたい現実を、苦しんでいる人と同じ心でしかし自然体でまっすぐ見て、ともに居る者にまっすぐ受けとめさせてくれる不思議な力をこの良寛さんの言葉は持っているように感じます。

近年、日本では自然災害が多発しています。
地震も津波も火山の噴火も台風も、私達人間にはその発生を阻止することは出来ません。昔と比べると僅かに発生の予想が出来るようになり、多少の準備は出来るようになりましたが、千変万化の自然の振る舞いの前にはあまりに微力すぎ、自然の力の巨大さを思い知らされることばかりです。
この自然の力の前には人間の力は余りに無力であるということは、結局の所昔も今も変わらないように思います。
人事を尽くして天命を待つということわざがあります。
人の力の及ぶところは及ぶ限り努力して、そしてそれでも及ばないところについては良寛さんの言葉の通りあれこれ思い悩まずそのままそういうものだと受け入れてしまうのが人生を生きる上での得策なのでしょう。
災難を災難と思わず運命だと感じられれば、結局災難はこの世になくなってしまいます。
まさに災難を逃れる妙法です。
しかし、災難は消えても過酷な運命はそこにあります。
その時、人を苦しみから本当の意味で救ってくれるのは良寛さんの言葉のような心の底からその人のことを思って発せられる人の言葉であり行為なのではないでしょうか。
このように真実に相手のことを思って発せられる言葉のことを仏教の言葉で「愛語」と言います。
愛語によって人は自分の運命が腑に落ち新たな行動を始めることが出来るようになります。

 「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」
  修証義より

SNS全盛の今、言葉の持つ力について考えてみることは必要なことかも知れません。
住職記

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