慧可断臂

 慧可断臂(えかだんぴ)
 毎年12月1日から8日まで、臘八摂心(ろうはつせっしん)といって連日ほぼ一日中坐禅修行をするのが本山や各地にある禅宗の修行道場の習わしです。
この臘八摂心は、お釈迦様が6年間の苦行の後に菩提樹の木の下で12月1日から坐禅を組まれ8日目の明け方に悟りを開かれたという故事にちなんだものです。
そして、続く9日は達磨大師に続く禅宗二祖の慧可(えか)大師が入門をなかなか許さない達磨に自らの左腕を臂(ひじ)から切断して決意のほどを示したという故事にちなんで徹夜坐禅を行い、これを断臂報恩摂心(だんぴほうおんせっしん)といいます。
この慧可大師の断臂を題材にした室町時代の画僧雪舟の水墨画「慧可断臂図」(国宝)を見ると、前を見据える達磨のギョロッとした眼と苦痛に耐えながら切った腕を差し出す慧可の切実な表情が印象的です。
仏法(仏の教え)を求めるために腕を切り落とす…あるいは史実を離れた誇張された話なのかも知れませんが、この逸話によって私達はいかに真実の仏の教えが尊いものであり、得ることの難しいものであるかということを感じ取ることが出来ます。
そしてこの逸話からもう一つ私が思うことは、今の私達は身を危険にさらしてまでこれほど切実に何物かを求めるということが果たしてあるのだろうかということです。
修行僧が修行に行く際持っていく物の中に涅槃金(ねはんきん)というものがあります。
金額は今では数千円ほどですが、これは、修行僧自身がその修行中に死亡した場合の葬儀費用。
もともと禅宗の修行僧は各地の様々な寺を遍歴して修行をするという伝統があり、それが故「雲水」(うんすい:雲の如く水の如く諸方を訪ね歩く意)とも呼ばれて来ました。
雲水が、その遍歴の途上で行き倒れたり病死したりした場合に遺体を葬ってもらう為のお金が涅槃金。
現代では、本山等の決まった場所で修行をするのですが、この涅槃金という昔からの伝統は残っています。
私も若い頃、本山に修行に行くにあたり荷物を用意していて、涅槃金のことを知り身が引き締まる思いであったことを思い出します。
今の修行僧はこの涅槃金を用意するということで、死を厭わず修行をする覚悟とまでは行かなくても、そんな覚悟がここで求められているんだなと昔の私と同じように感じているのだと思います。
臂を断った慧可大師の求法の心、涅槃金を荷物に入れて諸方を遍歴した雲水、そんな古人の伝統の中に今の自分(僧侶)がいるのだということを忘れてはいけないなと感じます。

歳晩にあたり、自らの来し方を顧みて、ただただ例年の如く日常に流されて一年が過ぎてしまいそうではありますが、少なくとも凡夫は凡夫なりに為すべきを為し、為さぬべきを為さぬよう気をつけて過ごして参りたいと思っています。
住職記

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