お彼岸

 お彼岸という行事は、調べてみると随分歴史が古く、最初は平安時代の初めに国の行事として行われ、それが次第に民間の習俗と混じり合って今のお彼岸に変わってきたということのようです。
仏教では、世の中を川の流れとその両岸になぞらえて、迷いの多いこちら側の岸を此岸(しがん)、それに対して煩悩の流れを渡りきった迷いのない向こう側の岸=仏の世界を彼岸(ひがん)といいます。
仏教に於いてこの”彼岸”という言葉は、年中行事の”お彼岸”という意味だけでなく広く仏の世界を表す言葉として使われています。

 先日、母親を最近亡くされた方と世間話をしていたら、話の中でふと「住職さん、仏さまってどこにいるのでしょうね?」と聞かれました。
仏さまと言っても亡くなられた方を意味する仏なのか、神さま仏さまというような一般的な大きな存在としての仏さまなのか二通りの意味があります。
どちらの意味で言っているのかなとも思ったのですが、結局は同じことかなと思い、仏さまがどこにいるのか? について彼岸に関連して自分の考えていることを少しお話しさせていただきました。

まず非常に具体的な話として、お祈りの方向について。
映画などでよく見かけますがキリスト教徒の方が神様にお祈りをするときは、なんとなく空の方、つまり上を向いてお祈りをするように思います。
つまり神様は上にいる。
日本の神道でも、神はカミであり、つまり上に存在しているのだと思います。
対して我々仏教徒は、奈良の大仏のように見上げるように大きな仏像にお参りするといったケースを除けば、殆どの場合仏に祈るときの意識的な目線は水平の方向(地平の彼方)ではないかと思います。
仏様は水平(地平)の彼方にいるということ。
神は我々とは本質的に異なった上位の存在であり、仏は我々と同じ世界に属しているが遙か遠い彼方に存在している。
つまり、神は上にいて、仏は遠いけれども横にいるということです。
遠い近いというのはある意味主観的なことですので、本質的に仏は我々と同じ地平に存在していると言っていいのではないでしょうか。
神に私達はなることは出来ません。
仏に私達はなることが出来ます。
かつてお釈迦様が悟りを得て仏になられたように、私達も仏になることが出来る。
少なくとも可能性は存在する。
ゆえに、仏さまは水平の目線の彼方に存在し、私達が苦しんでいるときには横に並んで苦しんでくれ、悲しんでいるときにはその悲しみを共有してくれる。
苦しみ多き人間の究極の理解者が仏さまではないか。
そして人は死ぬとその仏の世界に融合してゆく。
そんな風に私は思っています。

と、以上のような内容のお話しをさせて頂きました。
もっと肉親を亡くされたその人の状況に沿った話をするべきだったのかもしれず、独りよがりの話だったかなとも思うのですが、思っていることをお話しさせて頂きました。

暑さ寒さも彼岸までと申します。
季節は冬から春へと移り、人の世界も移ろいゆきます。
でも人と仏との関係は変わりません。
人は仏を尊び慕い、かくありたいと願い、同じように人に優しく接したいと思う。
その思いをいつも変わらずに持ち続けていたいものです。

住職記

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