仏様はどこに?
仏様はどこにいらっしゃいますか?
私達の宗派曹洞宗では、寺に住職が新たに就任する際、新住職が本堂の中央奥の壇上に上がり、禅問答をする式があります。
その折、よく小さな小僧さん(お寺の息子さんが多いです)が、壇上に登った住職に大きな声で問答をいたします。
その時に良く聞かれるのがこの、「仏様はどこにいらっしゃいますか?」という小僧さんの問いです。
もちろん自分で考えるわけではなく、まわりの大人のお坊さんが、こういう風に質問しなさいと教えるのですが、この問いは一番シンプルで、小さな子供にも意味がそれなりに分かる質問です。
この問いに対して、壇上の住職は「仏様はあなたの心の中におられます云々」というような様々な答えをいたします。
考えてみますと、この、仏様はどこにいるのか? という問いは、私達仏教徒の仏を求める最初の一歩であると同時に、非常に大切な問いかけであると思います。
仏様と言った時、何を思い浮かべるでしょうか?
仏というのは、ある意味非常に曖昧な言葉です。
歴史上実在した、お釈迦様の他に阿弥陀様も大日如来も仏様です。
一般にはお地蔵さんも仏様でしょう。
他にも様々な仏様がいます。
亡くなった方のことも仏様と言います。
小僧さんの心の中におられるのもやはり仏様。
仏という言葉が指し示す対象は様々です。
この様な状況は、ただ一つの神を戴くキリスト教徒の人達などへ、非常に曖昧模糊とした分かりずらい印象を与えているように思います。
仏教徒(特に日本の)はもっと自分たちの仏の姿を語るべきなのではないでしょうか。
ただでさえ多様で分かりずらいのですから、無口でいても誤解されるだけです。
宗派により、人により、色々な説き方があるのだと思いますが、私は仏様というのは一つだと思っています。
大きな大きなこの世界の命の営みを司っている原理のようなものが仏様なのだと思います。
その命の原理である仏様が、私達の眼に見える世界に多様な姿をもって現れてくる。
それが、お釈迦様であり、阿弥陀様であり、お地蔵様なのではないでしょうか。
私達を大きく包みこみ、命を与え、育て、奪い、また再構成して命を循環させていく。
この命の営みを駆動させている力こそ、仏なのではないか。
そんな風に私は思っています。
大きな存在は優しいものです。
象さんや熊さんは、その大きな体がいかにも頼もしく、優しそうなので、子供たちの人気者です。
限りなく大きな存在である仏様は、限りない優しさを持っています。
私達の世界を動かしている 命の原理=仏 はどこにでもあり、どこにでもその姿を現しています。
しかし、見ようとしなければ見えません。
感じようとしなければ、感じ取ることもできません。
6月は梅雨。
静かに降る雨の中、心を研ぎ澄まし、
雨音の中に、
雨上がりの空でさえずる、鳥たちの鳴き声の中に、
命の力を、仏の優しさを、感じ取って頂きたいと思います。
住職合掌
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