莫妄想

 莫妄想(まくもうぞう)
”莫”は〜するなかれという意味、
”妄想”は禅宗では伝統的にモウゾウと読み、考えや想いへのとらわれ・心の迷いを意味します。
ですので、「莫妄想」は「考え・想いや心の迷いにとらわれることなかれ」という意味になります。

昔中国の禅宗のお坊さんで、一生涯何を聞かれても「莫妄想」の一言しか答えなかったという人がいるそうです。

問:仏とは何か?
答:「莫妄想」
問:仏法とは何か?
答:「莫妄想」
問:禅とは何か?
答:「莫妄想」
問:あなたは莫妄想としか答えないがそれは何故か?
答:「莫妄想」

多分こんな感じだったのでしょう。
取り付く島がないとも言えますが、禅的と言えば非常に禅的です。
ある意味、問いを発するという時点ですでにそれが”妄想”(モウゾウ)だと言うことになるわけです。
とらわれを捨てる。
これは仏教の大事な眼目ですが、上のお坊さんの例では仏道を求める問い自体も想い・考えへの「とらわれ」としてはねのけられています。
完璧なまでの”莫妄想”。
全ての問いが却下され、対峙する二人の上では空でカラスが鳴いているのみ…そんな情景も想像できてしまいます。
若干こじつけではありますが、大事なことは、それでもカラスは鳴いているであろうということ。
つまり、問いを発し、問いを却下されたその時その瞬間も時間は止まらず現実は動き続けているということ。
禅は”今”を追求します。
というか、”今”に生きるのが禅の道です。
現実の中に現に生きている我々が、その現実を離れ、頭の中からのみ発した問いは全て”妄想”ということになります。
上の莫妄想一本槍のお坊さんは極端な例ですが、禅に於いては、血の通っていない、いわゆる議論のための議論のような問答は基本的に”妄想”として退けられます。

さて今、日本は震災と原発事故で大変な状況です。
いずれも地震という天災によるものとはいえ、今になって思われるのは、もう少し津波に対する備えをしておけなかったのかなということ。
今回津波で被害を受けられた地域には各所にここまで大津波が来たという昔の碑が建っていました。
また、仙台平野には今回内陸深くまで津波が押し寄せましたが、江戸時代に街道があった場所はほぼ全て今回津波が来た地点より僅かに内陸側に作られていたとのこと。
科学的な知識や技術が進んでいる今より、昔の人の方が津波に対する備えをしていたと言えるのかもしれません。
そして、どうにも情けない不始末というか、津波に対する備え不足と言わざるを得ないのが福島の原子力発電所。
過去に幾度も大地震が起きている地域の海岸に立地していながら想定していた津波の高さは最大5.7メートルというのは一体どういうことなのでしょう?
少し北の地域には明治時代に10メートルを超える津波が来ているのです。原発に万一の事故があればどういうことになるか(今そうなってしまっているわけですが)考えなかったのでしょうか?
そんな訳はありません。
当然考えられていたはずです。
でも、100年後に来るのか、もしかしたら1000年経っても来ないのか予想もつかない事態への対策より、東電や日本政府の組織全体としての利益が優先されてしまったということなのでしょう。
今、日本を動かしている政治、経済、産業界の上層部の人達は、自分たちの閉じた世界の内側でしか意志決定と行動が出来なくなっているように思います。

”莫妄想” 妄想する事なかれ!
今、日本を動かしている人達に必要な言葉です。
自分たちの論理でのみ考えていると、現実から離れていってしまいます。
現実を直視しなければなりません。
社会を動かす人達の論理と行動は現実に足がついていなければなりません。
地震はいつ来るか分からない。
でもいつかは必ず来る。
人間の都合で津波の高さは変わらない。
旧くなった施設はいずれどこかに故障が出る。
多分大丈夫だろう、なんとかなるだろうというのは妄想です。
どういう対応が必要で、どこから手を付けるのが合理的か。
現実に即して考え、現実に即して行動する。
たとえ自分たちの給料が減っても、お金を掛けるべき所には掛けなければならない。
特に原発のように本質的に特別な危険をはらんだ施設には人間の妄想(現実から遊離した自分勝手な考え)を介在させてはなりません。
電力会社や政府の原子力政策を担う人達の携帯電話の待ち受け画面に常に大きく”莫妄想”と表示しておけたらと思います。

地震発生直後はまだ雪のちらつく日もありましたが、季節はもう梅雨。
時の過ぎゆくのは良くも悪くも速やかです。
人の記憶もいずれ時とともに薄れてゆきます。
しかし、今回の震災と原発事故で経験した私達の世代の苦難と失敗の記録はけっして忘れることなく、世代を超え子々孫々に語り伝えていかなければいけないと思います。

住職記

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