老病死

 先日、ぱらぱらと雑誌を眺めていたら登山家の野口健さんの記事が出ていました。
ご自身の文章の中で、

「山(ヒマラヤ)に登っていると遭難者の亡骸を見ることがよくあります。高所登山はそれ自体非常に危険です。死を非常に身近に感じます。でも、死を感じる分、同じだけ自分が生きているというリアルな充実感がある。日本にいては感じることの出来ない感覚です。この生きているという実感を得たいから私は山に登り続けるのかもしれません。」

という主旨のことを書いていらっしゃいました。
今の日本で、普通に生活していて、死を間近に感じると言うことは自分が病気や事故に遭わない限りまずありません。
日本の私達の日常は、死を感じることのない(出来ない)生活です。
しかし死は、私達が感じていてもいなくても、全く関係なく、ある時突然に、或いは次第にその姿を現します。
そして、私達に生の意味を問いかけます。
生とは何か? 生きるということはどういうことなのか?
私なりの答は以下のようなものです。
 生きているということは、まだ死んでいないということ。
 死とは何かといえば、それは、かつて生きていたということ。
 生と死は二つで一つ。
 或いは紙の裏表と同じく一つのものの二つの側面。
生がなければ死はなく、死がなければ生もない。
 そして、その生に意味を付与するのは自分自身。
最後の一行は異論があるかもしれませんが、あとはあまりに当たり前のことです。
しかし、この当たり前のことを、私達は普段棚上げして日常を送っています。
そして、いつか死がやってくるまで、昨日の続きで今日があり、今日の次は明日がくる…という感じで日々を過ごしていきます。
別にそれで問題があるわけではありません。
しかし人生の本質から目を逸らして生きるというのは、あまり幸せなことではないように思います。
野口健さんはテレビなどにもよく出ていますが、大変バイタリティーにあふれたユニークな方です。
彼のバイタリティーは、死が常に身近にある彼の経験から来ているものの様に思えます。
死を感じていた方が、今の人生がより生き生きしたものになるのではないでしょうか。
現代のややこしく疲れる日常生活に活を入れ、人生に瑞々しさを取り戻すため、今自分自身が生きている現状を、「死」が裏側にある「生」として見つめ直してみては如何かと思います。
住職記

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