峰の色 谷の響も皆ながら

 峰の色
 谷の響も皆ながら
 吾が釈迦牟尼の声と姿と

曹洞宗の宗祖道元禅師は沢山の和歌を遺しておられます。
上の歌もそのうちの一つ。
季節の移ろいとともに変わってゆく峰々の色、そして聞こえてくる谷川のせせらぎ、自分を取り囲んでいる自然の姿そのものの中に仏(釈迦牟尼)の姿を見る、道元禅師の澄んだ心の有り様を素直に感じさせてくれる歌です。
仏は、お経やお堂の中だけにいるのではありません。
山や川や海や雲や、世の中全てのなかに仏はいます。
道元禅師の感覚の中では、世の中全てと仏とは同じものの別の言い方だったのだと思います。
せわしい現代社会を生きる私達ですが、たまに家の雑事や仕事から離れて自然の中に身を置くと、野山を吹きすぎる風や川のせせらぎ、鳥たちの鳴く声、ゆったりと動いていく雲、いつまでも打ち寄せ打ち返す波の音…そういった自然の営みに触れて癒やされ、大げさに言うと生きて行くパワーをもらうということは結構誰しも経験があることではないでしょうか。
「仏とは何か?」
という問いへの答えの一つとして、「無条件で人を癒やすもの」というのはかなり当たっていると思うのですが、その考え方からすれば、自然はまさに仏そのものと言えます。
今、中高年の登山ブームと言われますが、人の作った決まりの中で心をすり減らし、疲れ、そんな人達の気持ちが山へ自然へと向かって行くのは誠に自然な成り行きのようにも感じられます。

私事ですが、最近、毎朝近くの河原を散歩するのが日課になっています。
横を国道が通っている川の畔のごく普通の河原ですが、結構沢山の鳥たちがいて、今の季節に朝歩いていると様々な鳥の鳴き声が聞こえて来て、なにか昔テレビ番組で見たアフリカのサバンナの水辺に来たような感覚があります。
少し前にカワセミを見かけ、先日は甲羅の長さが20センチ位の大きな亀が道端でのんびり目を細めていました。
1時間ほど歩いて帰ってくると大変気分がスッキリします。
最近肩の凝りも無くなってきました。
結局の所、「自然に癒やされている」と言うことなのだと思います。

人は人の力だけで生きているわけではありません。
水や空気や食べ物を作り出す大地、自然という前提が無ければ人の社会は成り立ちません。
人類も結局は生命の種の一つ。
自然という大きな全体の中の一つの部分です。
部分は全体があってこその存在。
人は自分がその部分である本来の全体=自然を感じられる状況で落ち着き安心します。
これはちょうど子どもが母親の元で安心するのと同じです。
子どもが母親の元で無心に安らぐように、
私達は自然の元で無条件の安らぎを感じます。
仏が、「無条件で人を癒やすもの」ならば、
自然もまた、「無条件で人を癒やすもの」です。
両者は共通しています。

最近は自然災害が多く、今年はいきなり5月の史上最高気温が北海道で記録されるなど不安も感じられますが、その自然の中で私達は生きています。
この自然が私達の生きる「場」です。
この「場」以外に私達の生きる場所はありません。
最近の自然災害は、もっとこちらに注意を(敬意を)払えと母なる自然が言っているようにも感じます。
普段人工的な環境で生きている大方の現代人は、もっと意識的に自然の一部としてこの自然の中で生きているという気持ちを持つべきなのかもしれません。
そして、そんな意識を持って日々を送る中に、自然に、おおらかさや、安らぎや、お互いへの優しさが所々に顔を出してくるように感じます。
住職記

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