布施といふは不貪なり

 布施(ふせ)という言葉、現在ではお寺に納めるお金という意味で普通使われていますが、本来は周りの人に広く施すという意味を持つ仏教の教えの中でも特に大切な言葉です。
そして単に施すのでなく、見返りを求めないで施すということ。
布施のことを喜捨とも言います。喜捨とはつまり喜んで捨てるという意味ですから、見返りを求めないという布施の精神が強く表れていると思います。
今回取り上げました道元禅師の言葉
「布施といふは不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり。」
これは、道元禅師が書かれた正法眼蔵菩提薩埵四摂法という文章の冒頭の一句です。
布施とは貪らないということであり、貪らないとはへつらわないということである。と端的に示されています。
 今、新型コロナウイルスが流行して世界中でマスクの需要が高まっています。
日本では最近次第に供給量も増えてお店で普通に買えるようになってきましたが、4月5月くらいまではどこのお店でもなかなかマスクが手に入らず誰でも苦労したことと思います。
多分自分用や家族用に買い占めたり、高く売れるまで売らないでとっておいた人がたくさんいたのでしょう。
相田みつをさんの詩に
「うばい合えば足らぬ、わけ合えばあまる」
というのがありますが、まさに今回のマスク騒動はこの詩の通りの状況だったように思います。
「うばい合い」が貪りであり、「わけ合い」が不貪つまり布施です。
国が指示を出し、製造業者もフル稼働で作っているわけですから、いつまでもそんなに足らない状態が続くとは思えません。当面自分で使う分だけ確保できたらそんなに買い占めないように皆が気をつければそれほど足らないわけはないのです。
この場合、「買い占めない」ことがつまり布施です。
ところで、マスク騒動のさなか、どこかからどこかへたくさんのマスクが寄付された…などと時々報道があったように思います。
これらは布施でしょうか?
道元禅師の上の言葉に沿えば、例外はあるかも知れませんが殆どの場合布施とは言えないでしょう。
なぜなら、言葉の後半で”貪らない”とは”へつらわない”ことだと言っています。
”へつらう”とは相手の機嫌を取ったり気に入られるように振る舞うことを言います。
報道されるような寄付行為はその多くに社会的賞賛を受けたりといった見返りを期待している面があり、どこかに多少なりと相手や社会に対して”へつらう”気持ちが含まれています。
ですので、そのような行為は社会的に価値ある行為ではあっても布施ではないということになります。
道元禅師の言う布施の姿とは、自分が必要とするものだけを取り、あとは周りの人や周りの社会に自然に回し向けてゆくということなのだと思います。
全く目立たず、誠に清らかで綺麗な行いです。
とはいうものの、現実には、周りの様子を見ながら、先のことを考えながら生きて行かざるを得ないのが人間です。
完璧な布施の行いはなかなか出来がたいことです。
それでも、布施という仏道のあるべき姿について知っているのと知らないのとでは大きく違うように思います。
完璧には出来なくても布施を心掛け、自分も他人も心地よく暮らしていけるようにしたいものです。
住職記

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