六地蔵

 日本全国津々浦々お寺に限らず様々なところでお地蔵様を見かけます。
その多くは石で彫られた像で一体だったり六つ並んでいたり、また子供を抱えた姿であったりします。
道ばたや川縁で見かけることもあります。
お地蔵様は正しくは地蔵菩薩(じぞうぼさつ)という菩薩様です。
菩薩とは自分は仏になることが出来るのにあえて仏にならずにこの世界にとどまって人々を救って下さる有難い存在。
仏教では、生きとし生けるものは全て、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界を生まれ変わり死に変わりしていると考えられて来ました。
その六つの世界(六道といいます)の全てにおいて迷い苦しむものを救って下さるのが地蔵菩薩であり、六つの世界に姿を現すがゆえに六体並べて六地蔵として祀られることがあるというわけです。
仏教では慈悲が説かれますが、お地蔵様はまさにその慈悲の象徴。
苦しんでいる人を救いたいという気持ちは一般の私達でも持つことのある思いですが、お地蔵様の前に立っていると「正にその思いを実践に移しなさい、今からここから」と語りかけて来ているように感じます。
慈悲とは慈しみ悲しむと書きます。
慈しむとは人に優しくすると言うこと。
悲しむとは人の悲しみを自分の悲しみとすると言うこと。
言い換えれば人の悲しみに共感すると言うこと。
文字だけ情報だけのやりとりで世の中の多くの部分が動いている昨今、文字や画面の向こう側にある人の心と心のやりとりが軽視されているのではと感じることがあります。
先日、「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画を見ました。
昭和の中頃の正に高度成長まっただ中の庶民の生活を描いていて、人と人との関わり方が今の社会のように微温的ではなく、生の感情のぶつかり合いの中で人々が生きていて、なにか人と人の共感というのはこういう感情のせめぎ合いの中で生まれて来るものなのかなと感じました。
映画ですから当然描写に誇張があるとは思いますが、いわゆる古き良き昭和を感じることが出来たように思います。
さて、今年は令和六年。
昭和は遙か昔となり、人と人との関わり方はその多くがネットを経由してのやりとりとなり、時々なんとなく乾いた印象を持つことがあります。
ネット等を介した直接でない意思伝達の方が速く正確に多くの人に伝達できるという重要な利点がありますが、その代わり知らず知らずのうちに個々の生の人間への共感する力が失われてきているのでは?とも感じます。
どのように社会が変化しようとも、人間の肉体的条件は変わりませんし喜怒哀楽もやはりあります。
人と関わる時は、文字や画面の向こう側に自分と同じように感情を持った人がいると言うことを忘れないようにしなければと思います。

人の気持ちへの共感の先に慈悲の心の深く暖かい世界が広がっています。
お地蔵様を見かけたら、ぜひその前に立ち手を合わせて、他者への深い思いやりの心を感じて下さい。
お地蔵様は石で出来ているかもしれませんが現実にそこに存在しています。
仮想の存在ではありません。
手を合わせていると、いつか私達の心にも思いやりの心慈悲の心がしみ通ってくるように思います。
住職記

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