生死のなかに仏あれば生死なし

 今回取り上げた「生死のなかに仏あれば生死なし」という言葉は曹洞宗独自のお経である修証義(しゅしょうぎ)の冒頭二句目です。
修証義の中のとても大切な言葉だと思います。
生まれてきて今があり、そしていつか死んでゆく私たちの人生の中に「仏」があれば、流転してゆくが故に生まれる様々な苦しみから離れて安らぎとともに生きてゆくことができる。
そんな意味に受け取ることができます。
ここで「仏」とは、まず単純に仏様であり、人が生きて行くべき道として示された仏の教えの道――仏道でもあり、仏の悟りという意味にもなります。
仏の示された仏道をひたすらにそのまま歩んでゆくことと、仏道の最終到達点である悟りは同じものであるという考え方が曹洞宗にはあります。
仏の示した道――日常に即して言えば、嘘は言わない、謙虚であれ、人には親切に接する、食べ物を大切に扱う、ものを大切にする等々といったある意味人としてあるべき道を真面目に怠りなく歩んでゆくこと(修行)がそのまま悟りの行(ぎょう)であり、悟りそのものなのですよというのが、修証一等(しゅしょういっとう:修(修行)と証(悟り)が同等であるという意)という曹洞宗の大切な基本理念です。
ですので、まじめに自分の行いをあるべきように整えてゆく、あるいは整えるように日々努めていくということがつまり「仏」であると言え、そのように自分の行いを整えてゆくことが、”生死のなかに仏をあらしめる”ことになります。
仏様と同じ形をとり、同じ行いをすることによって私達の中身(心)も同じようになってゆきます。
手を合わせて心静かに仏様に礼拝するとき、その人はその時礼拝している仏様と同じように仏様です。

八月はお盆の季節。
自分と縁の深い亡くなった方々に有難うと言う気持ちを込めてお参りする時、その人は亡くなった方々とともにその時仏様の世界にいます。
今日本は炎熱の夏ですが、そんな暑さの中でもかつて自分の人生を支えてくれた、あるいはかつて人生の時間の一部を共有した人々に手を合わせていると、自然に心の中の落ち着くべきものが落ち着くべき所へ落ち着き、心の中の風通しが良くなって来るのではないかと思います。
どうぞ忙中に閑を作っていただき、お墓参りをして、あるいは亡くなられた方々に手を合わせて心静かにお参りをして頂きたいと思います。
住職記

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