生を明らめ 死を明らむるは 仏家一大事の因縁なり
「生を明らめ 死を明らむるは 仏家一大事の因縁なり」
この言葉は曹洞宗の大切なお経である『修証義』の冒頭の句です。
生きるということと、死ぬということとを明らか(諦めるという意味ではありません)にすることが、仏の道を志す者として非常に大切である。という意味。
修証義というお経は明治時代に在家信者の方に向けて開祖道元禅師の主著正法眼蔵の中から大切な言葉を抜粋して作られたものです。
遙かな昔、お釈迦様が王子である自分の身分を捨てて出家されたのも人間の老病死に触れて深く悩んだからであると伝えられています。
人間が生きていく上で本質的に重要なことというのはお釈迦様の生きた二千五百年前も道元禅師の生きた八百年前も今も何も変わりません。
いつの時代も一人の人が生まれてきてその人が経験する人生は一度きり。
気がついたら生まれてきていて、いずれは誰もが老病死の悩みや苦しみに向き合わざるを得ない。
この老病死という避けようのない現実にどう対処したらいいのか?というところから仏教は始まっています。
ですので、修証義も「生を明らめ 死を明らむるは 仏家一大事の因縁なり」 というこの言葉が冒頭の句になっているのだと思います。
私(住職)はもうすぐ還暦です。
最近親しくしていた方が急に亡くなることが何度か続いてあり、人間の命というのは本当にあっけなく消えてしまうものだなと実感しています。
日々の暮らしの中で、ああじゃないかこうじゃないかと悩んだり、ああしようこうしようと考えたりしながら行動しながらあっというまに一年が過ぎて行きますが、最近このままいつの間にかお墓の中なんてことになるのかなと、変わりやすい秋の空を見上げながら思うことがあります。
人はいつか死ななければなりません。
でも、死があればこそ今を大切に生きなければと思えるのだと思います。
死は人間にとって究極的に嫌なものですが、同時に生をさらに生たらしめてくれる根源的に重要なことなのではないでしょうか。
もし、医学が進んで永遠に生きられるようになったとすると、永遠に続く人生の中で人は幸せに生きられるのか?
多分そんなことはなく、永遠に続く時間の重圧の中で人は頭がおかしくなるか自ら死を選ぶかのどちらかになるような気がします。
暑かった夏が終わり秋がきたと思ったらもう冬。
人生の砂時計も刻一刻と砂が減っていきます。
さあこの一日も大切に過ごして参りましょう。
住職記
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