生老病死

 冒頭に紹介した釈尊のエピソードは、「四門出遊」といわれる有名なお話しです。
釈尊はシャカ族の王子ゴータマ・シッダルタとして生まれ、なに不自由ない生活をしていました。
居城には四つの門があり、ある時そこから外に出た折、庶民の生活に触れ、人間の老いと病気とそして死に目近に出会い、王族である自分も同じように老病死の運命から逃れることは出来ないことを知り、深く物思いに沈んだと言われます。
そして、最後に城の外に出たとき、身分や家族を捨て出家をした僧に出会い、自らもその道を求めたと伝えられます。

釈尊の時代と変わらず、現代でも老いと、病気と、死が人間の最終的な苦しみの元であることに変わりはありません。
誰も年を取りたくはありませんし、病気になりたい人もいません。

今、世を挙げて健康ブームです。
各地に雨後の竹の子のようにスポーツクラブが出来ています。
テレビで身体に良い食べ物が紹介されるや、次の日、その商品はスーパーの棚からあっという間に消えて無くなります。
今では、店の方でテレビで何が取り上げられるかをあらかじめ調査して、商品を揃えているそうです。
皆、健康でいたい、スリムな身体でいたい、病気になんかなりたくない、年を取っても人の世話にはなりたくない。
そんな思いから、今の健康ブームがあるのでしょう。

しかし、人々の希望に反して、なかなかダイエットは難しく、年を取るに連れて、膝は痛くなるし、中性脂肪は増え、血管も詰まりがち。
何とか身体の調子は調えても、気が付いたら、物忘れが始まって、今では、忘れたことも忘れてしまう。
無常であります。これが無常。どうにもならない世の流れ。

しかし一方、この間生まれた子供はどんどん大きくなり、幼稚園に入り、運動会で元気にはしゃぎ、お遊戯会で、成長した姿を親に見せ、桜の花に迎えられて小学校に入学し、中学で思春期を迎え、友達が出来、恋をし、成長してゆく。
じつは、これもまたこの世が無常であるがゆえ、であります。

無常とは常に変化してゆくと言うこと。
人間にとって、好ましい変化もあれば、好ましくない変化もあります。
両方ひっくるめて無常なわけです。

無常であるからこそ、人は成長し、新たな命をつくり、病を得、死んでいきます。
人生は無常です。無常とは一枚の紙のようなもの。必ず裏と表があります。楽しい面と悲しい面と。私達はこの時々入れ替わる面の上で悲喜こもごもの人生を送っています。

知は力なりと申しますが、この無常の裏と表を共に俯瞰し得たとき、我々はなにがしか、心の安らぎを得られるのだと思います。
時には、静かに心を調え、自らの人生を見つめようではありませんか。

住職合掌

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