平常心

  お茶を飲む時はお茶を飲み、
  御飯を食べる時は御飯を食べる。

これは、曹洞宗の宗祖の一人である瑩山(けいざん)禅師が「平常心とは」とお師匠様に聞かれて答えられた言葉です。

平常心というと、普通は何か事に当たって、興奮したり、浮き足だったりしない落ち着いた心、というような意味で使われておりますが、禅宗ではこの平常心という言葉は幾分違った意味で使われます。

この、お茶を飲む時は〜 という瑩山禅師の言葉の意味するところは、つまり普段が大切、と言うことです。
日々の一つ一つのことをおろそかにしないということ。
仏の道とは、何か特別の悟りの世界が別にあるというようなものではなく、日常の一挙手一投足の中にこそあるのだと言うことです。

ところで、瑩山禅師は「平常心とは」というお師匠様の問いに、もう一つ別のお答えをされています。
それは、
「黒い玉が闇夜の中をびゅーっと飛んでゆくようなものです」
というもの。
なんだかまさに禅問答ですが、
黒い玉が闇夜を飛んでいく様をちょっと想像してみて下さい。
想像は出来ると思いますが、しかし実際の所、闇夜に黒い玉では判別不能です。
平常心がこの黒い玉ということなのだと思います。
いつも心の中で活動している。しかし、外から見ても分からない。
確かに心の中にあり、心の中で何らかの働きをしているのだけれども、見た目には何もないように見える。

平常心とは素直な心と申しましたが、実際は素直でいることはなかなか難しいものです。
つい曲がったり、あらぬ方向に行ってしまいそうになる私達の心を、バックグランドでまっすぐに修正し続けていく心の中の働きが平常心ということになるかと思います。

この平常心、黙っていて、そうそう働いてくれるわけではありません。
禅の修行の眼目の一つはこの平常心を養うことにあります。
まずは最初に申しましたとおり、お茶を飲む時はお茶をのみ、御飯を食べる時は御飯を食べるということ。
つまり、なすべき事をなすべき時にしっかりやるということ。
悲しい時は悲しめばいいし、愉快な時は大いに笑えばいいのです。
ただ、今という時から目をそらさず、いつでも過不足のない適切な行いを心がける。
この心がけが、いつかしか身に染みついて、意識しなくても自然に心の中で働くようになった時、それが平常心というわけです。

平常心は、表には出てきませんが、しかし確実に私達の心を支え、自然の大きな力を与えてくれます。
そして結果的に、人生の様々な起伏の中で、歩むべき道を見失わない、しなやかで強い心をもたらしてくれるのです。

住職合掌

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