回光返照

 永平寺の今の禅師様が、かつて何かのお話しの折、自分の眼の玉は自分で見ることは出来ないのだ。という言葉を口にされたことがあります。
これは、意表を突いたなかなか含蓄のある言葉です。
 回光返照とは、この直接は見ることのできない自分の眼の玉に心の光をあてるということ。

 私達は、目で世の中を見、耳で音を聞き、鼻でにおいを嗅ぎ、舌で味を感じ、身体全体に触覚があります。そして頭で考えます。
私達はこれら自分の感覚によって捉えた世の中を、感じ取ったままが真実の姿だと無意識に思い込んでいます。
しかし事実は必ずしもそうではありません。

 眼の玉の例として、私達の身近にいる犬を取り上げてみたいと思います。
犬は一般に近眼で人間ほど色の判別が良くできないそうで、その代わり人間の10倍の聴力と1万倍といわれる嗅覚を持っています。
ですから犬は、人間と一緒に散歩していてもおそらくかなり違った世界を感じているはずです。
 もう一つ眼の玉の例ですが、今度はチョウチョの話。
 モンシロチョウの雄と雌は人間の眼にはほとんど同じ白い色に見え、見分けがつきませんが、彼らは人間には見ることの出来ない紫外線を見ることが出来、彼らの目には雄だけ黒っぽく見えるそうです。
人間に同じに見えるものが、モンシロチョウには違って見える。
モンシロチョウにとって雄と雌は色が違って当たり前で、
人間にとって彼らの雄と雌は色が同じで当たり前。

 つまり何が言いたいかというと、人間の視覚(感覚)が唯一で正しいというわけでは無いということです。
 そして、同じ人間でさえ、その時の身体の状態で、同じような状況でも、違った感覚を持ったり、異なることを考えたりします。
これは日常的に私達が経験していることです。
小学校や中学校の時の卒業文集に載っている自分の文章を読んでも、どうも自分が書いたという実感がわかない。そんな経験のある方も多いと思います。

 人の身体、私達の身体は私達自身が動かしているわけではありません。
自然の力によって動かされています。
私達が何を感じ、何を考えるか、私達の意志で決まると感じますが、しかしその意志を形作り、動かしているのはやはり自然の力です。
 回光返照とは、賢しらな心の営みをやめ、この自然の力によって自らの体と心が動かされているという事実を確かに見つめ、その事実をふまえた上で、やはり生きているという実感を得るということ。


 姿勢を整え、ゆったりと息を調え、静かに坐ってみてください。
自分で自分に向き合ってみてください。
自らの心が、自然に自らの内なる心に重なり融け合っていきます。
あなた わたし これ あれ そんな分別を離れた自由な心の世界。
一切のとらわれを離れた世界がそこにあります。

般若心経に言います。
 心にとらわれがない。
 とらわれがないが故に、恐怖がなく、
 誤ちから遠く離れ、
 永遠の平安に入る。

回光返照のさきにはそんな世界が広がっています。

住職合掌

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