”いのち”のふれあい

 6月から9月の日本が暑い時期、仏教発祥の地インドでは暑いのはもちろん、たくさんの雨が降る雨季の季節です。
かつてインドでは、釈尊やその弟子達が、雨季の間にはあまり外出をせず、一カ所にとどまって修行をするという習慣がありました。
 道が水浸しになって歩けなくなってしまうという実際上の理由と、雨につられて這い出してきた虫たちをむやみに踏み潰してしまわないように、という配慮でもあったと伝えられています。

 ところで、最近日本ではむやみに簡単に人を殺してしまう、ちょっと信じられないような犯罪が増えています。
屋上から子供を投げ落としてみたり、人を殺してみたくなったと言って、通りがかりの人の頭を金槌で殴ったり… 特に怨みや諍いが原因というわけでもなく、ただ気に入らないからとか、むしゃくしゃしたとか言った理由で簡単に人を殺してしまう。
10年20年前ではちょっと考えられない事件が日常的に起こっています。
何故なのでしょう?
日本がそれだけストレスまみれの社会になって来ているということなのでしょうか?
私は一つには生命感覚の欠如というものが大きな原因なのではないかと考えています。

生命感覚とは生きているという実感です。
本来動物にとって生きていくというのは大変なことです。
ほとんどの動物は一日の大半を食物を得ることに費やします。
人間もかつてはそうでした。
しかし現代社会では、食べ物を手に入れることはとても簡単。
食べる物も飲む物もどこにでもあり。
住むところはあって当たり前。
病気になれば病院で治してくれるのが当たり前。
少子高齢化で、子供は大切にされていますから、小さな子は勢い何でも自分の思い通りになると錯覚してしまう。

感覚とは周囲との接触(時には摩擦)があって初めて生じるものです。
死にふれることもなく、飢餓にふれることもなく、苦しみといえるほどの苦しみを経験することもなく、周囲の大人がなにくれと無く便宜を図ってくれ、快適な環境の中で育ってきている今の日本の子供たち。
彼らには、死の感覚もなく、飢えの感覚もなく、苦しみの感覚もない、あるのはただ自分の快適性を損ねる存在や状況に対する”うざい”という中途半端な感覚だけ。
今の子供たちはそんな地に足のついていないバーチャルな感性の世界を生きているのではないかと思います。
バーチャルな世界につまり仮想の世界の中に、本当の生きているという感覚、生命感覚が生まれようはずもありません。

この生命感覚の欠如こそ、昨今の低年齢化している奇妙な殺人事件そして自殺の根底にあるものなのではないかと思います。
生命感覚とは、他の命への共感です。
自分の命と、他の命が同じものであり、どこかで繋がっているという無意識の感覚。
この感覚を持っているからこそ、人は人の苦しみに涙し、思いやることが出来、人を好きになり、愛することが出来るのだと思います。

人を含め動物は大地から生まれ、そして大地に返っていきます。
人間も大地と空の間を廻る命の一つの形にしか過ぎません。
もっと謙虚に、地球に溢れる命の豊かさを見つめ、
その中の一つの命をいただいた自らも大切にしていきたいものです。

その為に、私達現代人はもっともっと地や水や生き物たちに親しむ必要があるように思います。
それもテレビやインターネットを通してではなく、じかに生で、触れあうこと。
”いのち”と”いのち”の生のふれあいを通してのみ、”いのち”への感覚を磨くことが出来るのだと思います。

住職合掌

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