布施

 布施というと、どうしてもお寺に納めていただくお包みのことを考えてしまいますが、本来はそんな狭い意味ではなく、非常に重要な仏教の言葉です。

布施の元々の意味は、見返りを求めず、他人に何かを施すということです。
普通、人に何かを施せば、人間の自然な感情として、してやったという感情が生じ、
してやったという感情は、無意識に対価を期待する心を生じさせます。
これはある意味自然な心の動きではありますが、対価を期待して施しをしても、それは布施にはなりません。
対価を求めるのであれば、それは取引、ギブアンドテイクであり、単なる物(価値)の交換です。
布施というのは一方通行。
ただ単にこちらからあげるだけ。
ただひらすらに、こちらからあちらへという精神です。
あちらからこちらへ何かが返ってくるとは初めから考えていません。

それじゃあどうも割に合わない。
何のために施しをするのか?
そんな気もしますが、
とんでもございません。
割に合わないどころか、実は良いことずくめなのです。

仏教では、人間の欲望から生じる様々な執着が人生の苦しみの因であり、この執着を離れ捨て去ることが安らぎへの道であると説きます。
人に何かを施す時、見返りを求めないということは、その施したということに対する執着を捨て去ることを意味します。
執着を捨てることは心のこだわりを除き、安らぎをもたらします。
つまり布施という無償の行為は、それを為す者の心の中から見返りへの期待(執着)という垢を一つ削り落としてくれるのです。
そして一方、施しを受けた側はまさにその施しによって利益を得ることが出来ます。
施しをした方は、善行の功徳を積むだけでなく、心にやすらぎを得、施しを受けた側は、施しの利益を得る。
これは、一挙両得。双方に良いことがあるわけで、こんなに素晴らしいことはありません。

明治維新で活躍した福沢諭吉の母は、心のまっすぐな浄土真宗の信者であったそうで、道行く乞食を家に招き入れては、身体や着物に付いているシラミをとってやり、シラミ取りが終わるとシラミを取らせてもらったお礼に食べ物を持たせて帰らせていたそうです。
それもただ社会奉仕のためにという風情ではなく、さも楽しそうに嬉しそうにシラミをとっていたといいます。
諭吉はこのシラミ取りに付き合わされて閉口したそうですが、この母親の姿こそ布施の姿の一つの見本ではないかと思います。
シラミを取ってやるという良いことをさせていただいた。
ありがたい、ありがたい。
ありがたいから、シラミを取らせてくれた人にお礼をしましょ。
そんな気持ちで食べ物まで持たせてやったのでしょう。
ここには自分の行為に対する見返りなど全く考えていない。それどころか、善行をさせていただいたというきれいな感謝の心があります。

世の中の人が皆この諭吉の母親のようになれば、この世はどんなに素晴らしく心地よい世の中になるでしょうか。

以下、道元禅師の言葉です。
 愚人思わくは、利他を先とせば自らが利はぶかれぬべしと。
 しかにはあらざるなり。
 利行は一法なり。
 あまねく自他を利するなり。 (修証義より)

布施(利行)は、他を利することによって、自を利し、さらには世の中全てに利する。
まさに、私達に無量の功徳をもたらす素晴らしい行いなのです。

住職合掌

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