いのち

 最近私は”いのち”という言葉に凝っています。
いのちとは、漢字で書けば命。
しかし、命と書くと何か人それぞれの個別の命を表すような感じがあり、私が言いたいのは、個々の命を超えてこの自然の中で全ての生命の活動を司っている大きな力のようなものですので、”いのち”と書いて区別したいと思います。
”いのち”とは、この世の中の漠たる無秩序に秩序をもたらし、生命を創り出し、その活動を支えている力。
私達の体内にあり、私達それぞれに命を与えている力です。
生きとし生けるもの全てに生老病死の宿命を与えた力でもあります。
私達はこの力によってこの世に誕生し、今生きています。
先月の言葉の中で仏様とはやさしさだと、書きましたが、そのやさしさとは、この”いのち”の持つやさしさだとも言えるかも知れません。

この”いのち”、昔、自然に今よりも近い生活をしていた時代には、人々はおそらく何も人から言われなくともその大きな力を常に感じ取りながら生活していたのだと思います。
この”いのち”によって米や作物が出来、獲物が捕れ、また、子供が生まれてくるのもこの精妙な自然の力である”いのち”のおかげなわけですから。
このことを昔の人達はひしひしと感じていたと思います。

翻って現代、今の私達はあまりに人工の物に囲まれて暮らしているせいか、自分たちがこの”いのち”によって生かされている自然の一部だということをいつの間にか失念してしまっている様な気がします。
何となく無意識的に自分たちがいわゆる自然とは別の存在であるかのように思っていないでしょうか?

自然界の精妙な構成の中の一部分として私達があります。
現代の私達人間は、人口が増え、科学や技術が発達して大きな力を持つにつれ、無意識のうちに自然を支配しているような気分でいるような所があります。
これは勘違いです。
傲慢は人の行動を誤りに導きます。

環境保護、自然を守ろうと、最近良く言われます。
先頃アメリカに大きなハリケーンが来て、大変な災害となりましたが、あれなども、もしかすると地球温暖化の影響かも知れないと言われています。
環境を守らなければ。
多くの人がそう考え、色々な運動が行われています。
でも、私はこの”守る”という言葉は適切ではないのではないかと思います。

環境(自然)とは、私達の生きている世界その物です。
環境環境と、まるで人間とは別個に存在しているまわりの世界のように感じる言葉ですが、実は私達人間自身が、その言っているところの環境の中の一部です。
全体が環境即ち世界であり、その一部分が人間です。
一部分である人間が全体を守るというのは、ちょっと無理があるのではないでしょうか。

私達は世界の中の一部として存在しています。
まわりの世界から独立して存在しているわけではありません。
私達のまわりの世界=環境と私達とは一体のものです。

仏様は、今生きている自分が、まわりの世界と共に生かし生かされ、全てと共に在るという感覚の中にお顔を出してこられます。
これが”いのち”の感覚です。
この”いのち”の感覚の中では、自分を大切にするのと同じようにまわりの世の中=環境(この言葉はあまり好きではありません)を大切にする、というのは当たり前の自然なことです。
”いのち”の感覚の中からは、”自然を守る”という発想は出てきません。
”守る”というのは、守る方が優位であるという感覚がありますが、”いのち”の世界においては、この世の中の全ての存在に優劣はありません。

環境や自然は守るものではなく、大切にするものだと思います。
傲慢は人の行動を誤りに導きます。
もっと謙虚に自然を見つめ、自己を見つめ、自然を大切に、自己を大切にしていきたいものです。
私達を生かしてくれている”いのち”をしっかり感じ取り、環境や自然を大切にすることは結局、自分を大切にすることとイコールだという、すがすがしく気持ちの良い真実に触れていただきたいと思います。

住職合掌

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