裏を見せ、表を見せて散る紅葉

 ”裏を見せ、表を見せて散る紅葉”
私は何となく、この句が好きです。
そこはかとない悲しさと、ほのぼのとしたやさしさというのでしょうか
良寛さんの飾り気のない人柄がよく出ているように感じます。

良寛さんについては、色々な本にも書かれていますので、知っている方も多いかと思います。
この句は、晩年に交流の深かった貞心尼という尼僧さんに向けられたものです。
自分の心の中の弱い部分も含めて全てを見せてきた人(貞心尼)に対して、何か肩の荷を下ろすような、そんな気持ちをもって作られたものなのでしょう。

良寛さんに関しては、沢山のエピソードが残されていますが、いずれにも共通しているのは、人肌の温もりというのでしょうか、当世風に言うと癒し系といいますか、思わず顔がほころんでしまうような、おかしみと同時に温かいやさしさを感じさせる、そんなお話しが多いように思います。

良寛さんの持つやさしさ=人の心を癒す力というのはどこから来るのでしょうか?
私は、良寛さんの心の背景にはいつも悲しみがあるように感じます。
庄屋の長男として生まれながら、生来の不器用な性格からか仕事をうまくこなすことが出来ず僧侶への道を歩んだ前半生。
人並み外れて正直な心を持っていたが為、世渡りのけっして上手ではなかった良寛さん。
生きていくことの難しさを、正直であるがゆえ、身にしみて感じていたであろうと思われます。
そんな良寛さんだからこそ、人の悲しみ、生きることのつらさを、それが誰のものであれ、自然な共感を持って受け止めることが出来たのではないでしょうか。
人生の底に澱のように沈んでいる悲しみを静かに見つめる心から、良寛さんの包みこまれるようなやさしさは、わき起こってきているように思います。

この良寛さんの、人の世の悲しみを見つめる心、人の悲しみを自分のものとして共感する心、これを仏教では悲心と言います。
仏教で大切な言葉の一つとして”慈悲”という言葉がありますが、この慈悲の悲は、悲心の悲です。
慈しみの心は、悲しみの心と同体です。
曹洞宗のお寺で現在一番良く読まれるお経は、おそらく大悲心陀羅尼というお経だと思いますが、このお経は、大悲心をもって衆生を救おうという願いをもった観音菩薩の功徳を讃えるお経です。
つまり、悲心(大悲心)というのは一番良く読まれているお経のテーマである訳で、ある意味、曹洞宗において(というか、多分大乗仏教一般において)一番の眼目であるとも言えるでしょう。

親や学校の先生が子どもに、人の気持ちが分かる人間になりなさい。とよく言われますが、これなどはまさに悲心のベースになることではないかと思います。
世の中が便利になり、人に合わせなくとも日々の生活が何事もなく過ぎていく昨今、なんとなく他人の気持ちに無関心になってきている傾向があるように思います。
人の心はやはり、思い思われていないと安心出来ないのではないでしょうか?
今、癒しが求められているのも、この辺りに原因があるのではないかと思います。
多少面倒に感じる時があったとしても、人と人との心の交流は大切にしなければならないのだと思います。
言うは易し、行うは難し。ですが、この人の気持ち(特に悲しみ)を思いやるという”悲心”、この様な世の中だからこそ、私達の心の中にも是非持ちたいものです。

住職合掌

”今月の言葉”に戻る