悲しみの共有

 世界には色々な宗教があります。
その中で、仏教の特色といったら何でしょうか?
いろんな答えがあるかと思いますが、私は、それは悲しみの心の共有ということなのではないか?
そんな風に思います。
傷つき悩んでいる人々と同じようにその苦しみや悲しみを共に分かち合い、同じように涙を流しながら、人々を励まし、より心安らげる世界へ導いてゆく。
お地蔵様のように、どこにでも姿を現し、同じ世界で、同じように苦しみながら、それでも人々に語りかけ、人々を救い続ける。
導くものも、導かれるものも、同じ地平にいます。
悲しみを共有した世界。
そこには上下関係はありません。
常に横にいて愚痴を聞いてくれ、励ましてくれる。抱いて暖めてくれる。
そんな温かい、体温が伝わってくるような救いの姿が仏教なのかな、と私は思います。

今、毎日のように、自ら命を絶っていく人々がいます。
大人のみならず、小さな小学生も自殺してしまいます。
日本は恵まれているようで、その実、寂しさと孤独と悲しみにあふれた国です。
お互いの無関心がその孤独を更に増大させています。
世の中が便利になり、あまり人と接点を持たなくてもひとまず生活出来てしまうという所に問題がある様に、私は感じています。
お互いの体温を、ほのかに感じられるくらいの距離で生活するということ。
ハリネズミの比喩というのがあります。
ハリネズミは寒い時に身を寄せ合って寒さをしのぎますが、あまり近づきすぎるとお互いの身体に生えているハリで傷ついてしまうので、お互い傷つかない程度に近づいてお互いを暖め合うのだそうで、人間同士の付き合いにも同じような構造があるのではという、そういう話です。
便利な社会の中で、あまりお互い近づかなくても用が足りるとしても、やはり人は小さい頃からある程度多くの人々と密に接触して、お互いの持つ心のハリで刺したり、刺されたりしながら、自らの心に生えているハリの所在と、他人のハリへの対処の仕方を学ぶべきなのでしょう。
一昔前までは、それは成長の過程に否応もなく存在していた状況だったのだと思いますが、困ったことに、今は、子供達に精神的に負担になるようなそのような状況を親や大人が意識的に提供しなければならない時代になってきたのかも知れません。
親だって複雑な社会の中でアップアップしているというのに難しい時代です。

こんな社会の中で、寺の住職として何が出来るのか?
根本的には、これは社会全体が変わらなければなりません。
簡単な事ではありません。
しかし、草の根には草の根なりの力があると思います。
お寺は古来、人の集まる所でした。
人と人とを結びつける場所です。
そして、最後に人を、人の魂を自然の世界に送り返す場所でもあります。
寒い世の中で、小さなストーブ程度のものですが、時折来てもらって、心を暖めて帰っていただけるよう、そんな暖かいホッとするようなお寺でありたいなと思っています。
お寺をベースに人の輪が拡がっていけば更にうれしいことです。

せわしい中で、寒さが一段と身にしみる12月、身体だけでなく、心まで凍えている人が狭い日本に沢山いることに思いを致し、何か自分に出来ることはないか?考えてみたいものです。
一人ひとりの意識と行動が少しずつ世の中を変えていくのではないでしょうか。
住職合掌

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