生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり

 「生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」
これは、曹洞宗の大切なお経である修証義というお経の冒頭の言葉。
大切なお経の一番最初に出てくる言葉ですから、曹洞宗の教えの最初の一歩と言うことになります。
「明らめ」というところは、「諦め」と勘違いされることがよくありますが、大切なところなので気をつけて頂きたいと思います。
「諦め」としてしまうと、なんとなく、人生なんてどうせいつか終わってしまうんだから…という悲観的な意味になってしまいます。
「生を明らめ、死を明らむる」というのは、生と死をしっかり見極めるということ。

人間誰しも長生きがしたいと思います。
日本は世界に誇る長寿国ですから、そのうちに平均寿命が100才なんて時代も来るかも知れません。
元気で長生きなら私も100才まで生きてみたい気がします。
どこまで長生きが出来るのでしょう?
一番長生きの人でも今は120才位が限界のようですが、医学や科学はどんどん進歩していますから、おそらくもっと長生きが出来るようになるのでしょう。
でも、いくら世の中が進歩して人間が長生きになったとしても、永遠に生き続けることはやはり誰にも出来ません。
50年の人生でも、100年の人生でも、200年の人生でも、最後に死が待っていることは変わらないのです。

死んで行くものがあるからこそ、生まれてくるものがあります。
死の悲しみがあるからこそ、誕生の喜びがあります。
永遠に生きることがもし可能になったとしたら、そこには喜びも悲しみも夢も絶望も全てが何もなくなってしまう平坦な世界が待っているように思います。

今日本の社会では、死というものに身近に出会うことが非常に少なくなってきました。
先ず第一に子供の数が減り、核家族になり、家族の人数が減って、家族の死に遭う機会そのものが減っています。
そして、現代の死は、自宅で家族に囲まれてではなく、病院で沢山のチューブや機械に囲まれて迎えるものになっています。
葬儀も葬儀屋さんが何から何まで全部やってくれます。
死は当事者以外には随分と事務的で簡単なものになってしまいました。

死を身近に感じることが出来なければ、今現在自分が生きているというドクドク脈打つ生命の感覚を感じることもまた出来ないのではないでしょうか。
死によって生は裏打ちされています。
死をまっすぐ見つめることは、結果として生をより充実したものにしてくれます。
日常生活から死が消えていっている今の世の中では、自分から死に心を向けて行く必要があるように思います。
インドの詩人タゴールの詩に次のようなものがあります。

 おお死よ。
 私の死よ。
 生を最後に完成させるものよ。
 来ておくれ。
 私に囁きかけておくれ。
       「ギタンジャリ」より

これは何も詩人が早く死にたいと言っているのではありません。
死を感じることによって、逆にその対比によって現在生きてある自分の生を一層輝かせたい、感じたい、というそんな気持ちを表しているのだと思います。
影があるからこそ光の当たっている部分が輝きます。
光しかなければ、ただその中でぼんやりとした暖かさを感じるだけなのではないでしょうか。
死こそ、生を充実させ輝かせ完成させてくれるものです。
住職合掌

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