一顆明珠

 最近、日本人宇宙飛行士の活躍が報じられることが多くなりました。
宇宙飛行士達が地球に帰って来て、「地球は美しかった」という言葉を口々に言います。
写真で撮られた地球の姿を見ると確かにこの光景を直に宇宙から見たらさぞ美しいだろうなと思います。
世界中の国の指導者達をスペースシャトルで宇宙に連れて行き、たった一つしかない美しい地球の姿を直に見せれば、地球上から戦争など無くなってしまうのではないかとも思ってしまいます。
 真っ暗な宇宙に浮かぶ青く輝く地球、これは仏教的な言葉で言えば一顆明珠そのものです。
暗い宇宙にただ一つ青く輝く命にあふれた星。
この星、地球はその上で何が起こっていても、ただひたすらに美しく輝いています。
 かつてアポロ計画で月に行った宇宙飛行士の中に、宇宙から地球を見た時、直感的に神を感じ地球に帰ってきてから突然牧師(神父?)になってしまった人がいるそうですが、地球を外から見るという経験は、それほどに人の世界観を変えるような強烈なインパクトを持っているようです。

 さて、「一顆明珠」という言葉は、中国の唐の時代、漁師から出家してお坊さんになった人が自分の禅の境地を表した言葉です。
「世界は素晴らしい、輝いている。全てのものがそれ自身でも世界全体と同じように素晴らしい。」
そんな気持ち(だと思います)を一粒の美しい珠に例えて表しています。
かなり観念的にも聞こえますが、この言葉を言ったお坊さんにしてみれば自分の感じたままを表現した直截的な言葉です。
有と無が転変し、美醜が交錯するこの現実世界を全くのそのままで無条件に美しいと感じる心(あたかも宇宙から地球を観るように)、これこそが禅の心ではないかと思います。

 よく子供の教育に関し、どんな子にも必ず何か良いところがある、取り柄がある、そこを伸ばしてやるべきだ…という話を聞きますが、教育者としては心するべき事だと思いますが、禅的な感覚とは若干のズレがあるように思います。
取り柄を伸ばすということにばかり目がいっていると、いきおい、それだけが人間(子供)の価値であるかのように思ってしまいがちではないでしょうか?
基本的に何事にも例外がありますから、中にはほとんど何の取り柄もない子もいると思います。
そういう子はどうするのか?
生きている価値がないのでしょうか?
取り柄を探す大人の方にも限界があります。
いずれ匙を投げられておしまいになってしまうかもしれません。
 本来、命あるものは全て、只そこに今あるというだけで充分に美しく輝く一顆の明珠です。
天が二物も三物も与えた子も、何にも与えられなかった子も、また逆に重い障害を与えられてしまった子も、全く同じように存在しているだけで素晴らしい一顆の明珠。
何かが出来るとか、取り柄があるとか、そんなことは全然関係ないのです。
完全に無条件なのです。
無条件に全てが美しい、これが一顆明珠という言葉の心です。
住職合掌

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