眼横鼻直

 「眼横鼻直」−読みはガンノウビチョク。眼は横、鼻は縦に付いているというごく当たり前の意味。

 この言葉は曹洞宗を開かれた道元禅師が中国での修行を終え日本に帰国されてすぐに人々に向けて説かれた言葉の中に出て参ります。
ここにその言葉を引用します。

 「山僧叢林を歴ること多からず。ただ是れ等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず。すなわち空手還郷す。ゆえに一毫も仏法無し。任運に且く時を延ぶ。朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。」(永平広録より原漢文)

どういう意味かと言いますと、

 「私はそれほど多くの寺で修行をしてきたわけではない、ただ偶然にも師である天童禅師に会うことが出来、そこで眼は横、鼻はたてに付いているというごく当たり前の事を悟り、その他のことに惑わされることが無くなった。そしてお経もなにも何も持たず空手で帰ってきた。だから取り立てて仏法などというものは一毫(毛筋一本)も持っていない。日が東から昇り、月は夜西に沈む、雲が去れば山が姿を現し、雨が来れば山の木々は潤って低くたれる。ただその中で日々を過ごしているだけである。」

当時の中国は、日本からすれば世界の文化の中心ともいえる国でした。
道元禅師はそこへ行って本場の仏教を学んできた訳ですから、さあどんな教えを説いてくれるのかと集まった人々は期待していたと思います。
しかしあにはからんや、まず発せられたのは上のように「眼横鼻直なることを認得して空手還郷、一毫も仏法無し」だったわけです。
意外な言葉ですが、しかしむしろこれは端的に道元禅師の仏法を表しているのです。
道元禅師が示しているのは、この世界全てはそのままで仏法であり、この世の中の特別な思想として、或いはこの世の中を説明する教えとして別個に仏法がある訳ではないという事。
「眼横鼻直なることを認得して空手還郷、一毫も仏法無し」という言葉にはそんな意味が込められていると思います。
道元禅師の世界に於いては、お経に書いてある経文や僧侶が説く教えが仏法であるのと同等に、太陽が東から昇るのも仏法であり、雲が切れて山が姿を表すのも仏法なのです。
この世の存在、人の行為も言葉も、全て仏法の顕現です。
この世の全てが仏法なのであれば、その中に生まれ出て、その中の一部として生きている私達が、どう頑張ってこれが仏法だと言葉で限定してみても完全に捉えきることなど出来はしません。
自分の手で自分自身を抱き上げることが出来ないのと同じです。
ですから仏法、仏法と仏法にこだわっていては仏法を得ることは出来ない。
ただひたすらに自らの心にこびりついた”こだわり”という名の垢を取り除き、心の風通しを良くし、なかなか開くことの出来ない心の正面の扉を大きく開ききった時、目の前のこの世の中全てが、まさに迷いの無い生き生きとした仏法そのものとして立ち現れてくる。
それが、あえて言えば仏法を感得するということ。
道元禅師の示しているのはそのような世界だと思います。

眼横鼻直−横のものは横、縦のものは縦。
当たり前のことを当たり前に見、当たり前のことを当たり前に行い、苦しみに挫けず、楽しみに溺れず、まっすぐな心でまっすぐに生きていく。
これが道元禅師の示された仏法の道です。
いつの日か、まっすぐな心の中に融通無碍で爽やかな気持ちの良い仏法の風がふわっと吹き込んで参りますように。
住職合掌

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