接心

 私がかつて修行した福井県の大本山永平寺では、毎年、釈尊の成道に因んだ12月の臘八接心(ろうはつせっしん)の後、年が明けて厳寒の2月に報恩接心(ほうおんせっしん)を行います。
接心は摂心とも書き、禅宗で行われる集中坐禅修行。
一週間の間、朝起きてから夜寝るまで、食事やトイレ−−禅宗では東司(とうす)といいます−−など以外はただひたすらに坐禅を続けるというもの。
途中で短い休憩が入ったりしますが、基本的にただひたすらに坐り続けます。
いずれも誠に寒い季節で、永平寺は冬はほぼ雪に埋もれてしまっていますので、なんとなく冷蔵庫の中で生活しているような感じだったのを憶えています。
もちろん、暖房もあるのですが、当時(昭和の終わり頃です)は坐禅をする場所の暖房は豆炭という炭を入れた大きな火鉢があるばかりで、何とも心細い物でした。
何もわざわざ、そんな寒い季節に接心を2回ともやらなくても、もう少し暖かい季節にしてもいいのではないかとも思えますが、やはり修行という観点から、肉体的に厳しい季節が選ばれているのでしょう。
寒いし、足は痛いし、正直飽きてくるし、坐っているだけというのも、なかなか大変なことです。
飽きるなんて、修行僧としてあるまじき事かも知れません。
でも、実際に飽きてしまうのですから仕方がありません。
飽きても、嫌になっても、それでも坐り続ける。
それが接心。
同じ姿勢をとり続けていれば、いずれ体が硬くなり苦痛が生まれます。
痛いです。
それでも坐り続ける。
精神の葛藤、肉体との葛藤。
この葛藤がつまり修行です。
この葛藤の過程において、私達は自らの肉体と心の”器”の形を感じ取ることが出来ます。

俗に「艱難汝を玉にする」とか「苦労は買ってでもしろ」などと言われますが、実際に苦労を買ってする人は居ません。
禅寺での修行というのは、実社会でのリアルな苦労ではありませんが、擬似的に自分自身の精神力の限界を思い知ることの出来る、現代にあって希少な場なのではないかと思います。

仏道は、自己を所在を明らかにする道。
自己とは何か?
それは哲学ではなく、肉体と心の苦痛と葛藤の中から感じ取られていくものです。
住職記

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