無量寿

曹洞宗で良く読まれている「妙法蓮華経如来寿量品偈」というお経があります。
その冒頭の部分を以下に引用します。 

自我得佛来。所経諸劫数。無量百千萬。億載阿僧祗。常説法教化。無数億衆生。令入於佛道。爾来無量劫。為度衆生故。方便現涅槃。而實不滅度。常住此説法。〜

これを現代文にしますと…
「私が仏になってより経過した劫を数えると、無量百千万億載阿僧祗(人の想像を遙かに超えた大きな数)である。その間常に法を説き続け、無数億の衆生を仏の道に入らしめてきた。それから無量劫の時間が経過した。人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとったが、実際には不滅であり、常にこの世界にいて法を説いている。」
となります。

さて、最初の方に「劫/コウ」という字が出てきます。
この劫は時間の単位なのですが、どこかで見覚えはないでしょうか?
実は、やたらと長い名前で有名な落語の寿限無(じゅげむ)の話に出て来ます。
このやたらと長い名前は、寿限無 寿限無 五劫の擦り切れ…で始まります。
寿限無とは、限り無い長寿のこと。
五劫の擦り切れとは、
−−天女が時折天から舞い降りてきて泉で水浴びをする際、その泉の岩の表面が微かに擦り減り、それを繰り返して岩が擦り切れて無くなってしまうまでが一劫で、それが5回擦り切れる、つまり永久に近いほど長い時間のこと−−と落語の中で和尚さんが説明しています。
劫というのは、このようにとてつもなく長い時間のことをいいます。
試しにインターネットで調べてみましたら、1劫=約40億年という数字が出ていました。
もしこれが正しいとすると、5劫は約200億年ということになり、宇宙の年齢をも超える途方もない時間となります。
冒頭に挙げた、お経の文句の中では、この劫の数が「無量百千万億載阿僧祗」ある、となっています。
無量というのは計り知れないほどという意味だと思いますが、百千万億載阿僧祗というのは具体的な数の単位です。
百千万億は現在の日本ではこういう言い方をしませんが、0の数を数えてみると1000兆の100倍=10京(1の後に0が17個続く数)になります。
そして次に出てくる載ですが、これがまたとてつもなく大きな単位なのですが、仏教に出てくる数の単位は、時代によりあるいは経典により意味する大きさが変わりますので、便宜上江戸時代に日本で編纂された塵劫記(当然、中国及び仏教の伝統を踏まえています)という和算の書物によりますと、1載は1の後に0が44個続く数であり、1阿僧祗は1の後に0が56個続く数とされています。
結局、百千万億載阿僧祗とは10の117(17+44+56)乗つまり1の後に0が117個つづく数ということになります。
この百千万億載阿僧祗が計り知れないほど沢山というのが無量百千万億載阿僧祗の意味になり、さらにこれが仏になってから経過した劫(1劫=約40億年)の数だというのですから、まったく文字通り0の数を考えるだけで嫌になるほど想像を超えた長い時間です。
結局の所、単に無量劫と書けば良いところを百千万億載阿僧祗などというとんでもない大きな数でさらに修飾しているとも言えます。

仏典には同様の途方もない大きな数がいたるところに出てきます。
いずれも人間の日常生活を飛び離れるどころか宇宙をも飛び出してしまうのではという位大きな数です。
なぜそんな大きな数を用いるのでしょう?
単に無量のとか無数のとか無限の、という言葉で充分であるようにも思えます。
私は、この過剰なまでに執拗な大きな数を用いるところに、仏教という宗教が人間による人間のために語られるものであるという本質が表れていると思います。
仏がこの世に現れたのは、人間には量り知れないほど過去のことだけれども、それでも私達と同じ時間の流れの中にある。
仏の世界は、人間には量り知れないほど遠いところだけれども、それでも我々が生きているのとおなじ空間の彼方にある(浄土教)。
仏教は、この様にあくまでこの私達の生きている時間と空間の延長線上で仏の存在を説こうとします。
あくまでも現実から足を離さず、遠く偉大な仏について語ろうとする。
その為に執拗に執拗に途方もない大きな数が経典の中に出てくるのだと思います。

仏はこの現実の中にあります。
あくまでも現実から目を離さず、夢想を離れ、いかに日々を丁寧に生ききり続けて行くか。
そこに、仏教の眼目があるように思います。
住職記

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