縁起(えんぎ)

 諸行無常…全てのものは移ろいゆく。
 諸法無我…全てのものは不変の主体を持たない。
上の二つの言葉は、涅槃寂静とともに三法印といわれる仏教の根本を表す言葉であり、今回取り上げた「縁起」という仏教の根源的世界観の二つの側面を表しています。
「縁起」は、仏教の世界観の基礎と言えます。

人間の体は、日々の単位で見ると加齢による変化を感じることはできませんが、数年前の自分の写真を見てずいぶん歳をとったなと感じることがあるように、日々刻々確実に老いています。
人間の体を作っている物質は一年でほぼ全て入れ替わってしまうそうです。
考えてみれば毎日朝昼晩とご飯を食べ、飲物を飲んだりしているわけですから、ある意味当たり前なことです。
そしてさらに、変わらないと思える自分という意識(感性、考え方)も時の流れと共に変わっていきます。
昔書いた文章(例えば卒業文集とか)を読み返してみて、自分は昔こんな事を考えていたのかと不思議な感覚を味わったことはないでしょうか?

人の体も意識も様々な要素によって構成され(無我)、
時とともに変わりゆきます(無常)。
流れゆく時の中に様々な相互作用によって一時的(長くて100年位)に世界の中に個体として維持されているのが人という存在なわけです。
生命のないものについても同じ。
岩、土、金属、それらを組み合わせて人間が作ったコンクリートや建物etc
これらのものも、動物や植物などの生命を持つものと比べると変化は非常にゆっくりしていますが、未来永劫変わらないということはありません。少しずつ浸食され、物理的に変化し、巨視的に観れば自然界の循環の中にあることに変わりありません。
全ては変わりゆきます。

そしてその相互の関わり方や変わり行き方を決めているのが「縁:えん」。
「ご縁がありますね」の「縁」です。
この縁によって単なる物質の寄せ集めが、この世界として、また持続する意識を持った人間として存在しえているわけです。

この世の全ては時間的にも、空間的(ものとものとの相互の関係)にも、お互いに依存し合うことによって存在たり得ている…
因あれば果があり、果あれば因がある。
全体があるから部分があり、「此:これ」あるゆえに「彼:かれ」あり、「彼:かれ」あるゆえに「此:これ」がある。
全ては縁によって結びつき、縁によって変化し、縁によって離れていく。
単なる時間的な因果関係だけでなく、存在の本来的相互依存性をも含めて「縁起」といいます。
この縁起という根本原理によって観られた世界の姿が「空:くう」です。

自分の生きているこの世界の空性(空であるという性質)を頭だけでなく体全体で感じ取るために禅の修行があるといえます。
住職記

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