悲心

 「人に迷惑を掛けるな。」
良く人生訓として聞かれる言葉です。
私はこの言葉があまり好きではありません。
なぜなら、人間とは本質的に人にお世話になり、迷惑を掛け、掛けられながら生きるものだからです。
例えば赤ちゃん。
一人で生きられるでしょうか?
年を取って自力では動けなくなってしまったお年寄り。
一人で生きられるでしょうか?
重い病気の時。
一人で大丈夫ですか?
人間だけでなく、動物も植物もその他目に見えないような小さな生き物たちも、全て持ちつ持たれつ、食べたり食べられたりということも含め相互に依存しあって生きています。
命あるものは単独では存在できません。

今の日本のように広く全体的に機械化システム化が進んだ社会では、日常生活があまりに簡単にできすぎて、人のお世話になっているという感覚を持つこと自体が非常に難しくなっています。
でも、人はお互いに依存し合いながら生きているという本質は、縄文時代も、江戸時代も、現代社会も、何も変わっていません。
お米を作る人。
野菜を作る人。
魚をとる人。
牛や豚や鶏を育てる人。
部品を作る人。
その原材料を作る人。
部品を組み立てて製品を作る人。
製品を設計する人。
流通を管理する人。
運送する人。
お店を経営する人。
そこで働く人。
などなど…

意識するしないにかかわらず、世の中持ちつ持たれつ、お互いに支え合って生きています。
どれかが欠けると、どこかに不具合が出てきます。
このことは今回の大震災で日本全体が身にしみて感じたことだと思います。
あまりに大規模に社会の構造が拡がりすぎて、相互に依存しあっているという本質を日常の中で感じることが難しくなっている今、災害が起こって気が付くのではなく、意識的に「お互いに支え合って生きている現実」に目を向け、じっくり考えてみる必要があるように思います。

支え合っている。共に生きている。という感覚の中から他者に対する思いやりの心が生まれてきます。
人間は全て同胞。
生命は全て同胞。
生命への共感。それが悲心です。
住職記

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