廓然無聖

 この廓然無聖(かくねんむしょう)という言葉は特に禅宗において非常に有名であり、また大切な言葉です。
この言葉は、禅を伝えた達磨(だるま)がインドから中国にやって来た時、国を治めていた武帝という王様と交わした問答の中に出てきます。
問答の大切な所は次のようなものです。

 武帝:「私は長く寺を作り経を写させ僧を育ててきたが、どんな功徳があるか?」
 達磨:「無功徳」−功徳などありません
 武帝:「それならば仏教の大切な真理とは何か?」
 達磨:「廓然無聖」−全てはカラリとしてそのまま、真理という特別なものはありません。
 武帝:「私の前にいる者は誰か?」
 達磨:「不識」−わかりません

これこそ禅問答という感じの見事な禅問答です。
本当にこの通りの問答が歴史的な事実だとすれば、この武帝という王様はよく怒らなかったなとも思いますし、達磨様もよくそこまで言うなというのが正直な感想です。
武帝という王様は非常に仏教を大切にした方だったそうで、それが故このやり取りが成立したのかもしれません。

禅は、思想として捉えれば基本的に一元論です。
つまり、全てのものは帰する所同じ「存在」です。
しかし、何か特定の唯一の(例えば神とか)存在に帰一すると言うことではなく、一存在は全存在と同一であり、全存在は一存在とイコールであるということ。
禅の心は、現実世界の様々な様相の中に「一即ち全、全即ち一」という存在の本質を感得するところにあります。
武帝が仏教を興隆させた行いに功徳がないわけがありません。
それは間違いなく世の中のためになったはずです。
それを達磨は「無功徳」と言った。
これはおそらく、相手が仏教を大切にする王であればこそ、物事の有無・善悪・是非を超えたその上の視点から観た世界こそが仏教の本質であることを伝えたくてあえて言った言葉なのでしょう。
「廓然無聖」も同じです。
現実世界の価値判断・分別を超えた視点から見れば、善人も悪人も、功徳も無功徳もあればこそこの世界が存在している。この本質を観ている心は広大であり無辺であり、闊達そのものです。
それが、「廓然無聖」という言葉で表現されています。

ちょっと話がそれてしまいますが、学生の頃「廓然無聖」という字を初めて見た時、「廓」という字に場違いな感覚を覚えました。
「廓」とは、普通「くるわ」つまり遊廓のことで、仏教用語に何でこういう字が出てくるのかなと思ったのです。
調べてみると「廓」という字は単純に広い場所という意味もあるようで、なるほどと思いました。
ですので、「廓然」というのは、「くるわのような」という至らない若者が邪推した様な意味ではなく、「広々としている」という程の意味になるわけです。
本題に戻ります。

最後に達磨様は、「不識」−わかりません、と言っておられます。
まあこれはこの辺で、王様に言っていることを分かって貰えないので、達磨様が匙を投げたということなのでしょう。
達磨様の言葉は、いずれも短く簡潔であり、まさに「廓然」として一陣の風のようです。
達磨様は、この後少林寺に入り、壁を向いたまま九年間坐禅を続け、中国、日本の禅宗の祖となります。

五月は本当に気持ちの良い季節。
私はこの季節が大好きです。
よく晴れた日に広い野原に行くと、空ではヒバリが鳴いていて何とも心地よいものです。
人生苦もあり、楽もあり、色々ありますが、ひとまず全部忘れて心を空っぽにして野原に寝ころび(ときどき犬の落とし物があるので少し気をつけて)しばらくポカーンとしてみてはいかがでしょう。
普段はなかなか開けっぴろげに出来ない心の風通しがきっと少し良くなることと思います。
住職記

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