蝉の声

 今、日本は高齢化社会です。
高齢化のスピードは世界最速と聞きます。
社会の安定と充実した医療によって長くなった日本人の平均寿命、そして年々加速している少子化がこの高齢化社会となって現れています。
寿命が長くなるのは大いに結構なことです。
誰でも元気で長生きをしたいのが普通です。
しかし、少子化というのは何とも寂しい感じがします。
単純に考えて、男女一組で2人の子供をもうけて人口がそのまま維持され、それ以下なら人口が減っていき、それ以上なら増えていく。
日本の場合もう20年前からこの数字は1.5人以下。
つまりこのまま行けば、日本人は次第に減っていき、遠い未来でしょうが、いつかは消えて無くなってしまうことになります。
現実には、どこかで減少が止まり安定した人口を維持するようになるのかもしれませんが…何とも寂しい話です。
いずれにしろ、少なくともこの先当分の間、日本は老人だらけの国であり続けることは間違いなさそうです。

さて、老人というと、いかにも老いて、体の機能が衰え、心ならずも人様の厄介にならなければ生きていけない存在…そんな語感があると思います。
しかし、漢字本来の「老」という字の持っている意味は単に年をとっているというだけではありません。
時代劇に出てくる、「家老」「老中」「大老」等という藩や幕府の重役の役職名には「老」という字が使われています。
しかし別に必ずしも老人がその役に就いていたわけではありません。
「老」という字は、様々な経験を積んで世の中のことについて深い知識を持ち、尊敬に値する−本来そのような意味です。
禅宗に於いても、仏教への深い知識を持ち修行を積んだ立派な僧侶に対しては、その人がたとえそれ程年をとっていないとしても、「老師」の尊称を付けて呼ばれます。
「老」というのは年を取って衰えていくというマイナスのイメージではなく、人生の経験を積み、様々な知識を持っているというプラスのイメージを持って使われるべき言葉なのです。

人間長く生きていれば、次第に肉体的には衰えていきます。
しかし、逆に経験や知識は増えていきます。
特に単なる情報ではない経験に基づいた知識というのは貴重なものです。
亀の甲より年の功という言葉もあります。
それだけ、人生経験によって得られた知識というのは事実に基づいているだけに確実だということです。

今の世の中は、技術革新も早く、価値観も様々です。
いきおい、「年寄りの智恵」など前時代的と感じられてしまいます。
しかし、長く生きた人はそれだけ人生経験が豊富です。
社会の中での様々な局面で、どのように行動し、その結果がどうであったか。
どのように行動し、どのように失敗したか。
どのように行動し、どのように成功したか。
この、人が社会で生きていく上での様々な経験的な知恵というものは、いつの時代にあっても後に続く者にとって貴重な情報です。

ご自分を年寄りと思われる方は、年を取ることを忌避するべきではありません。
1年経てば、1年年を取る。
どうしようもないですし、当たり前のことです。
そして、年を取り、長く生きるというのは素晴らしいことです。
長寿は、ただそれだけで尊敬されるべきことです。
「いつまでも若く」などという青臭い考えは気持ちよく放り捨て、若者の増長にはきっちり苦言を呈し、悠々と人生を生きていって頂きたいと思います。
住職記

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