濁りなき心の水にすむ月は 波もくだけて光とぞなる

 『濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて 光とぞなる』
 きれいな歌です。
この和歌は、私がかつて永平寺で修行していた時、時々お経の講義があった広い部屋の片隅に掲げてありました。
夜行われるお経の講義は正直退屈で、昼間の疲れもあってつい居眠りしてしまうことも多かったのですが、ふと顔を上げた時この言葉が目に入るとなんとなく爽やかな気分になり、つかの間眠気が遠のいたのを覚えています。

 この歌は道元禅師の和歌を集めた《傘松道詠:読みはサンショウドウエイ》という和歌集に入っています。
道元禅師は、非常に厳しく仏道修行を求められた方で、自身に対しても弟子達に対しても大変厳格な印象があるのですが、残された和歌を読みますと厳しい反面に大変繊細な心を持っておられたのだなと感じます。

 道元禅師の和歌で一番有名なものは、
『春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり』でしょう。
この歌は川端康成氏がノーベル文学賞受賞の記念講演で日本の美の心の話をした際に引用し、有名になりました。
『濁りなき〜』も『春は花〜』も、何れも非常に透き通った澄んだ美しさを持つ歌です。

 さて、冒頭の歌ですが、感覚的にきれいだなと感じるのですが、意味はどうなのでしょう?
月というのはおそらく”悟り”の比喩だと思われますが、後段について状景は目に浮かぶのですが、どういう事を意味しているのか…、お経の講義の間にとつおいつ考えてみたこともあるのですが、結局分からずじまいでした。
そもそも和歌ですから確定した意味を付与する必要もないのかもしれませんが、ひとまず、今この歌によって心に浮かぶ状景を私なりに解釈してみようと思います。
 まず、修行を積んだ人の心が澄んだ水面です、そこに映り込んだまあるい月がつまり悟り、そしてその水面にしずくが一滴ポツンと落ちる、これは人の心を乱す外部的要因を抽象的に表現しているのでしょう。
そして、水面つまり心の表面はざわめき月即ち悟りもその姿が揺れ乱れる。同時に、月の姿の本体である”光”そのもの、つまり悟りの本体も様々な方向に散り放たれ、遍く世界に拡がってゆく。
 もしかすると、見当違いなのかもしれませんが、以上が、私にとってのこの歌の心象風景です。

 季節は秋から冬へと変わってゆきます。
私は、暑い夏よりも空気の澄んだ寒い季節の方がどちらかというと好きです。
空気が澄んでいると、心も澄んでくるような気がします。
最後に、冒頭の道元禅師の歌をもう一度引用して終わりにします。

 『濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて 光とぞなる』

住職記

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