ともに妙法を単伝す

 単伝(たんでん)という言葉、この言葉を最初に聞いたのは大学時代の坐禅実習の時間でした。
坐禅をしながら指導教官(僧侶)の話を聞いている時、この「単伝」という言葉を知りました。
話をされていた先生は、「仏法は単伝するものである。人から人へ単伝する。相伝ではない。ここが重要だ。」と話しておられました。
相伝ではなく、単伝…確かに剣道の奥義にしても何か大切なことを師匠から弟子へ伝える場合、一般には一子相伝というように相伝という言葉を使います。
しかし、仏法の場合は単伝…この違いはどういうことなのか。
基本的には師匠から弟子へ仏法を伝えるわけですから相伝という言葉でもおかしくはないはずです。
そこをわざわざ単伝というからには、それなりの意味があるということです。

禅の世界観では、この世の中は一(いつ)なるものです。
人や様々な生き物や木や河や水も空気も、全て一なるものが人間の感覚に多様な姿を持って感じられているに過ぎない。
全は一であり。一は全である。
これが禅の感覚の根本にあります。
であるがゆえ、相伝ではなく単伝。
つまり、相伝といった場合二人の人間の存在が前提ですが、単伝の場合弟子と師匠という二人の人間がいることに変わりは無くとも、仏法が伝わる時二人は個々の人間という区別を超えた一なる世界にいるが故、単伝という表現が成り立つのです。

単伝という言葉、個々の人間がそれぞれに生きているこの世界そのままで仏法そのものであるという禅の心を端的に表しています。

この「単伝」の話をされた大学の先生の口癖は「尽十方界の真実」(じんじっぽうかいのしんじつ)という言葉でした。
この世の中の真理というほどの意味ですが、どんな時も最後に必ずこの「尽十方界の真実」が出てくるので、なんとなく「またそれですか…」的な感覚で聞いていました。
今になって思えば、この世は全て尽十方界の真実そのもの、尽十方界の真実でないものはどこにもありません。
ですから、いつでもどこでも「尽十方界の真実」一言ですべてがOKな訳です。
禅の心は誠に融通無碍、何でもありといえば本当に何でもあり。
柔軟といえば、どこまでも柔軟です。

”この世界に包摂されている自分”という感覚を大切に、柔軟にしなやかにこの新しい一年を始めて参りたいと思います。
住職記

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